OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第41回 横須賀編【7】文・写真 藤野浩章
ついに横須賀港と決まった製鉄所。
当時の横須賀は幕府の領地(天領)であったが、実はここを預かっていたのは佐倉藩主の堀田正倫(まさとも)だった。これを返還させ、22戸あった農家と漁民は代替地を用意して移転してもらうことになった。
あとは、一体いくらかかるのか?だが、仏側の見積もりに欠かせないのが、建設と運営を取り仕切る責任者だ。そこで白羽の矢が立ったのがフランソア・レオン・ヴェルニーだった。仏側の強い希望だったというが、なぜ彼らは1837年生まれで当時弱冠(じゃっかん)28歳の若者を推したのだろうか。
艦隊司令官ジョーライスは『どことなくムッシュ・オグリと似ている』と表現したが、それは「選ばれた者だけが持つ強い自尊心と内面の強さ」があり「感情より理性を重んじ」「心の広さも併(あわ)せ持っている」ということだという。
身内がこんなにべた褒めするのには理由があった。本書に詳しいが、彼は中国において「18カ月で砲艦4隻を建造する任務の総責任者」に抜擢され、極めて過酷な状況でついに任務を達成している。それゆえに海軍内で"不屈の男"という評価がされていたのだ。特に、アジア人を見下し「犬とシナ人は入るべからず」という立て札まで立てた英国とは違い、賊(ぞく)に襲われても偏見を持たない姿勢をとり続けたという。
その評判から日本での任務に適任とされ、頬のそばかすがトレードマークとも言える若者に、本国の海軍大臣よりも高い1万ドルという年俸を提示してまで起用にこだわったのだった。
彼は悩んだ末、ついに日本行きを決意する。小栗との歴史に残る名コンビ誕生の瞬間だった。
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