OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第43回 横須賀編【9】文・写真 藤野浩章
長州征伐に莫大な予算を費やしたのに、またもや造船所に国家予算を大きく超えるお金を使う----。しかも使い物になるのは数年後というから、幕府の存亡がかかった当時、こんなことを進めようと思うのは、勘定奉行を兼ねていた小栗だけだろう。
それはもちろん、私利私欲などという安っぽい理由ではなく国の未来を考えてのこと。もっと言えば"幕府を守る切り札"であると、本気で考えていた。
切り札と言えば、年45万両の支払いのために白羽の矢を立てたのは"生糸"だった。当時、ヨーロッパで飛ぶように売れた絹織物のため、日本が生糸の世界一の輸出国となっていた。しかも蚕(かいこ)の伝染病によって他国の生糸が極端に品薄になる中、日本の良質な生糸は喉から手が出るほど欲しい資源だったのだ。
そこで日仏合弁の交易商社(コンパニー)をつくって生糸を一括管理し、優先的にフランスに回すという絶妙なプランが生み出される。あくまでも"優先"だから、通商条約を結ぶ他国の批判をかわせ、何よりその利益で合計240万両の建設費が賄(まかな)えるかもしれないというのだ。
「生糸が造船所に化けるとはのう。これは奇策じゃ」と老中・水野忠精(ただきよ)が唸(うな)った通り、まさに虎の子の生糸を最大限活かす方策を小栗は"発見"したのだった。
交渉は順調に進み、造船所建設に関する「趣意書」、続いて「約定(やくじょう)書」が日仏両サイドの共同作業で作成された。
しかし、である。
出来上がった約定書を見たロッシュが首を傾けた。建設担当者の欄に、小栗上野介の名前が無かったのである。
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