横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.10.10
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第15回 文・写真 藤野浩章
中島父子をはじめ、浦賀奉行所が再三にわたって洋式軍艦の建造を求めていたのは、他でもなく今までの経験から異国船に対応するのには台場の大砲では心許(もと)ないと考えていたからだ。後に奉行所は「異国船の大砲は"活物(いきもの)"」「台場の大砲は"死物(しにもの)"」だから自由に動けて大砲が撃てる軍艦が必要、という上申書さえ送っている。
しかし幕府はあくまでも陸上の台場で防衛をする方針だった。しかも、船を造るにも三本の帆柱がある船の建造を禁止する「三檣(さんしょう)禁止令」があるうえ、異国船と誤認される恐れがあるというのだ。
それでも、現場を知り尽くす三郎助たちは粘り強かった。ついに老中・阿部正弘は奉行所に試作を許可する。帆柱を1本にした和洋折衷の小型船だったが、1849(嘉永2)年8月「蒼隼(そうしゅん)丸」が竣工する。費用は約二三三両。比較的安価な見積りだったことも決め手の一つだったようだ。そして翌年には試乗が行われ、なかなか良好な性能を見せた。
ところが、なんとその試乗から約1カ月後、蒼隼丸は火災で全焼してしまう。奉行所の船倉から火が出たという説があるが、浦賀奉行所が総力を挙げて試作した純国産軍艦が活躍の暇もなく焼失するとは、悲劇としか言いようがない。三郎助は責任を問われて自宅謹慎となったというが、さぞかし落胆しただろう。
しかし、それまでの浦賀奉行所の努力は思わぬ成果を生む。
この後、とある人物の登場であっという間に船が復活することになる。そして、このアクシデントを通じて浦賀の造船ノウハウが格段にパワーアップするのだ。
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