戻る

横須賀・三浦 コラム

公開日:2026.07.03

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第50回 文・写真 藤野浩章

  • 運上所跡(神奈川県庁)

    運上所跡(神奈川県庁)

  • 三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 (写真2)

 アメリカを皮切りにオランダ、ロシア、イギリス、フランスと立て続けに条約を結んだ幕府。いよいよ鎖国が終わりを告げることになったが、井伊直弼がその拠点の1つに選んだのは言うまでもなく横浜だ。寒村だったエリアでは、たった4カ月ほどで土地の造成から波止場、役所などが建てられ、各国の商人が続々と押し寄せたという。

 そして安政6(1859)年6月2日、開港の日を迎える。西洋暦では7月1日。ハリスは米独立記念日である7月4日にしたかったが、他国が一致して1日に決め、幕府も承諾する。同時に開港された函館、長崎と比べ、総輸出入額の80%を占めた横浜港は、貿易だけでなく、列強がうごめく世界情勢の荒波に巻き込まれていくのだ。

 その矢面に立ったのが、神奈川奉行所。現在神奈川県庁がある場所に貿易事務を扱う運上所(うんじょうしょ)が設けられ、紅葉が丘には役所が置かれた。今まで浦賀奉行所が一手に引き受けてきた業務だけに、浦賀から与力や同心が一部異動し、そのノウハウが活かされたという。浦賀奉行所自体は「海の関所」の機能をこの後も果たしていくが、三郎助を始め、浦賀の街と共に生き、仕事をしてきた人たちは、急激な変化の中で複雑な感情を抱いていたのではないだろうか。

 一方、開港で莫大な出費をすることになった幕府は、国家の危機に協力すべしと、商人はもちろんのこと庶民にも金銭や仕事の負担を強いるなど、万策尽きる状態に陥っていた。

 そんな中、翌年1月に咸臨丸が浦賀を出港し、アメリカへ向かう。しかし、約4カ月後に帰港した時には、世の中の情勢は一変していた。

横須賀・三浦 人気記事ランキング

  • 前日
  • 1週間
  • 1か月

横須賀・三浦 人気記事ランキング

  • 前日
  • 1週間
  • 1か月

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

横須賀・三浦 コラムの新着記事

横須賀・三浦 コラムの記事を検索

コラム

コラム一覧

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS