横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.06.19
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第48回 文・写真 藤野浩章
「今度は江戸詰めですか」
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安政4(1857)年4月、長崎から蒸気船・観光丸が江戸に向かっていた。目指すは、築地。現在の旧築地市場に隣接するあたりに、幕府はこの前年「講武所(こうぶしょ)」を設立。大筒(おおづつ)などの操練を行う施設とし、陸軍の基礎をつくっていた。そして今度は「軍艦教授所」を併設し、後の海軍人材の養成所としたのだ。
日本主導の海軍養成機関とするため、長崎で責任者だった永井尚志(なおゆき)らが帰京。2年後に長崎海軍伝習所が閉鎖されたことで、日本唯一の海軍養成機関となる。この閉鎖にはオランダに支払う金額が莫大だった事情もあったが、幕府の実権を握った井伊直弼の意向が大きかったという。後に「軍艦操練所」と改称され海軍教育の拠点になった同所は、小栗上野介とも深い繋がりを生んでいく。
浦賀へ帰っていた三郎助にも当然声がかかり、教授方として任命された。榎本釜次郎、そして三郎助を支える浦賀の同心、春山弁蔵(べんぞう)らも就任。ちなみに前年にはジョン万次郎も教授となり航海術や英語を担当していた。浦賀を守る与力という仕事から、今までの経験で学んだ事を"次の時代を担う若者たちに伝える"という新たなミッションへ。三郎助は胸をときめかせるが、妻すずは冒頭のセリフのように寂しげだ。しかしもうすぐ40歳という彼にとって、残りの人生も意識した大きな転換点だったろう。
そして遅れて教授方となったのが、勝海舟。井伊政権の荒波を巧みに超えてきた彼は奇策を講じる。長崎にいる間に、外国奉行となっていた永井に宛て、遣米使節への参加を訴えていたのだ。
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