藤沢 社会
公開日:2026.08.14
【戦後81年】「教育で人が変わる」 片瀬在住 金田富佐江さん(92)
国民学校の一期生だった。1941年に発令された「国民学校令」により軍国教育を強いられ、「天皇は神様で、日本は神の国」と教えられた。校長の朝礼時には直立不動で立たなければならず、夏には倒れる人が続出。同年から始まった太平洋戦争の影響で、集団疎開を余儀なくされた。
二度の疎開
練馬で生まれ育った金田さんの疎開先は、群馬県磯部温泉の近く。1クラス40人ほど、全体で4クラスが男女別の大部屋に複数人で寝泊まりをした。夜になるとホームシックで一人が泣き出し、それにつられてほかの子どもも泣き出してしまう。「糸引く納豆パンをもって、みんなで川辺に行って食べた」。集団疎開に楽しい思い出などなかった。近場で疎開していた2つ上の兄が検閲を潜り抜け、一通の手紙を自宅へ送った。「帰りたい」。滞在期間約1カ月で、兄とともに自宅へ帰った。
同年8月からは、愛知県一宮市にある親戚の尼寺へ縁故疎開した。毎日寺の中での掃除や家事を尼に教わった。村をいくつも超えた先の小学校へ1時間ほどかけて通ったが、嫌がらせやいじめを受けた。「やってもないことを擦り付けられた。『疎開っ子』と呼ばれ、よそ者は嫌われた」
終戦後の景色
終戦した3日後の夜明け、静寂の中に響くコツコツという足音が、父の迎えを知らせた。後から疎開していた弟にすぐ「迎えに来た」と知らせ、待ち焦がれていた家族との再会を喜んだ。足音だけで迎えを理解した当時の感覚は、後にも先にもこの時以外では感じなかった。
地元に戻って目にしたのは、爆弾で穴の開いた道路と、灰色に広がった風景。火の雨を降らすような焼夷弾によって多くの建物が燃やされ、練馬は焼け野原と化していた。先に戻った兄と自宅にいた父は、空襲警報が発令するとすぐに水をかぶり、身の回りの使えるものをすべて使い、消火活動に励んだ。その甲斐あり、金田さんの家はなんとか原型をとどめていた。
正反対の価値観
中学1年になった47年には「学校教育法」の制定に際し、「6・3・3制」が施行された。また国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原則とする「日本国憲法」の施行も重なり、教育は大幅に変化した。憲法の内容を分かりやすく記した副読本「あたらしい憲法のはなし」には、軍国主義の教育で学んできたものとは全く異なる、民主主義的な価値観が書かれており、「目を覚まされる思いだった」。だが、その後の朝鮮戦争勃発による国際情勢の変化、政府の方針や世の中の動きとのずれが生じ、この教材はわずか3年ほどで姿を消した。
何が正しいのか
「大人が信じられなくなる」と当時の心境を吐露する。教える立場で自分の目の前に立つ大人たちの発言が短い期間で一変し、戸惑いを隠せなかった。当時の経験もあり、教育の改善が必要であると考え、PTAの活動にも勤しんだ。
「大人の言うことにただ従うのではなく、自分でよく考えることが大切。『私はこう思う』と心から思うべきだと、子どもたちには伝えたい」
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