〈第3回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる(3) あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会
平治の乱に於いて平清盛の巧妙な陥穽に嵌(はま)り、保元の乱で朝廷と帝の厚い信任を得ていた源義朝、九仭(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)く結果を招き、源氏一族悉(ことごと)く権門より退場を余儀無くされ一族は思い思いに伝(つて)を求めて再起の道を模索して行かねばならなかった。佐々木秀義一族、都を脱出して渋谷の庄迄120里、風の戦(そよ)ぎに馬の嘶(いなな)きにも怯えながら正に命を削る様な逃避行だった事だろう。
渋谷重国の待受に佐々木秀義、心中は混迷して言葉も無かった事だろう。重国とて、単純明快に侠気のみで秀義を捕捉したとは思えない。一族一党の命運を懸けて鳩首(きゅうしゅ)会談を重ねた事だろう。
その頃、東国の源平の旗幟(きしき)は後世の講談の様に鮮明では無く、四囲の氏族達も源氏追捕(ついぶ)の報に対応する意見が統一されていなかった。
秀義一行も奥州平泉迄80里の道程を想う時、重国の言葉を乾坤一擲(けんこんいってき)選択せざるを得なかったのか!?かくて佐々木一族一行は心ならずも重国の庇護を受ける形となった。この頃、源頼政を除き既に四散した源氏ゆかりの氏族達それぞれの落ち着き先で、都の又義朝横死の報を入手し、悲憤に沈んだ事だろう。
義朝の三男頼朝は未だ年端もゆかぬ年少者として助命嘆願が辛くも聞き入れられて、伊豆韮山に配流(はいる)の身となっていた。平家方の伊豆韮山の目代・山木兼隆の監視を受けながら、源氏に心を寄せる北条家をはじめ地の土豪達と密かな交流が続き、その中に渋谷の庄、重国のもとで逞しく成長しつつあった佐々木秀義の4人の子供たちの姿があった。渋谷の庄より長駆馳せ参じ、源氏の将来について話しは熱を帯びて、時が経つのを忘れたことだろう。
時は過ぎ都で栄華を誇り、平家にあらずんば人に非ずと豪語していた平家にも翳(かげ)りが忍び寄る。
後白河法皇の皇子似仁(もちひと)王、源頼政をはじめ各地の源氏へ平家打倒の令旨(りょうじ)を発す。時に治承4年(1180)、渋谷の庄にて雌伏20年、重国の恩愛を受けて石橋山へ源氏挙兵へと馳せて行く佐々木4兄弟、平家方として大庭氏・近隣諸氏等と参陣する重国はどの様な想いで見送ったのだろうか!?
【文・前田幸生】
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