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綾瀬版 公開:2014年11月7日 エリアトップへ

〈第5回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる(5) あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2014年11月7日

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 この頃、権門・寺院等に支援された以仁王の挙兵を鎮圧した清盛。後白河法皇を権力の座より退位させ、高倉上皇・安徳天皇を奉じて平安京より福原へ遷都を画策していた。朝廷内平家一門一族の中でも反対はあったが…清盛に向かって諫言をできる者はいなかった。

が…しかし東国で勃発した頼朝の反乱が、清盛の遠大な構想の障害となってくる。

 一方、大庭・梶原・渋谷氏等を主力とする頼朝討伐軍は、石橋山に於いて圧勝するも長蛇を逸する。梶原景時の密かな背信に依り歴史は変わっていく。

 平氏方についた武士団の戦後処理、頼朝の反攻に対する検討対策は充分に成されていたのだろうか!?又、渋谷重国にとってもこの度の勝利は複雑な想いがあったことだろう。それは佐々木氏及び4兄弟の処遇について大庭氏より詰問を受け、答弁に苦慮していた。

 それにこの度の様に一朝事が起これば、その出費も重国の領地では楽に捻出できたのか!?大庭・梶原・海老名氏等の様に平坦で肥沃な領土が支配域に比べて少なく、戦費の分担も負担となった事だろう。幸い、重国は太郎光重を筆頭に5人の子息に恵まれていた。四囲の氏族と境を接しながら、領土経営にも精を出さねばならなかった。又、家族・同族一党の領土・利益の配分、四囲の大半の氏族は祖を同じくする者達であったが、姻戚関係の提携も大事な仕事であった。

 この頃、安房・上総では源氏に心を寄せる豪族たちが、頼朝一行を迎えて呉れた。頼朝が奥湯河原に潜伏している間、三浦・中村一族を中心に安房・上総・下総・武蔵等、源氏味方の根廻しが進んでいた様子が窺える。頼朝一行房総に渡ってより、軍勢の整えが素速かった。

 歴史には「たられば」はつきものだが、時代を少し溯れば治承3年(1179年)の正月の頃、清盛は富士参詣を企画し相模国松田郷に御所を造営。東国武士達に面謁し、東海・関東の武士達の再編を企図していたとの説あり。以仁王の令旨が発せられる一年前である。冒頭記述の清盛の身辺は公私共に多忙を極め、東国への下向は沙汰止みとなり、歴史は大きく反転を始め頼朝の反攻を許す事となる。

【文・前田幸生】
 

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