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綾瀬版 公開:2015年7月10日 エリアトップへ

〈第13回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる13 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年7月10日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 頼朝、帷幕の意を容れて隠忍(いんにん)自重だったか!?雌伏の想いだったか!?長元の頃(1028年〜)より朝廷の思惑(おもわく)・都合で、源氏と平氏は局地的な争乱を度々余儀なくされてきていたのだが…。

 今、頼朝、義仲追討の軍を催す大義名分を得て、東国武者で編成された精強の部隊が、打倒義仲の進軍だった。日頃より騎射・打物(うちもの)と、領土開拓・保全に汗を流しながら武術武芸に励んできた東国武士団。別けても相模国の武士達、渋谷一族、出陣の命に備え寧日(ねいじつ)無き日々だったことだろう。

 頼朝軍、鎌倉を発行。一路、京を目指しての行軍だったが隊は二手に分けられ、範頼・義経を指揮官に戴き、渋谷一族は義経の隊列にあった。この頃すでに義経、鍛錬と軍学に明け暮れ一廉(ひとかど)の将器と育ち、血気盛んな若大将となっていた。老練な重国、まだ血気に逸る高重達、遥かなる戦乱の地・京まで一糸乱れぬ行軍を、この気鋭の指揮官の下(もと)、維持できたのだろうか!?

 東国の武士団を束ねる範頼・義経。統率される東国武士団。様々な想いを内包しながらの進軍だったことだろう。義経の指揮は、古来よりの戦術・戦法・軍律を踏襲してきた東国武士団を混乱させた。もとより命を惜しまぬ東国武士達だったが…。義経、並外れの将だった。進軍の途次の情報の収集、果断な行軍、東国武士団異論を発する者あるも追従する。

 木曽義仲、この人も並の将ではなかったが、情報収集、帷幕の質量、判断の甘さがあったのか!?後白河院との確執、平家軍の思わぬ反攻等々…。義経、疾風迅雷の京都接近だった。義仲、不覚にも対義経迎撃の態勢が不十分であった。武将として心の準備さえあれば多勢に無勢でも幾多の戦いを凌いできた義仲だったが…!?

 一方、義仲討伐軍、近江国へ進入。二人の将は二手に分かれて、義経は宇治より軍勢を進めていった。この軍勢の中に渋谷重国・高重・重助等の馬上の姿があった。頼朝の綺羅星の如き帷幕の将達の中に、坂東の騎馬武者の中に、佐々木一族の中に、渋谷一族颯爽たる進軍であった…が、佐々木一族の庇護・石橋山での源氏方への不参加、平家追討参陣、そして今、本来なら頼朝の濃密な系譜であるべき義仲を討ちに征く、骨肉相食む源氏の血を想い暗然たる馬上の重国ではなかったか!?ともあれ血戦は眼前に迫っていた。

【文・前田幸生】
 

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