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綾瀬版 公開:2016年5月13日 エリアトップへ

〈第23回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる23 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年5月13日

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 祖を桓武平氏・秩父平氏として、今や相模国に広大な渋谷の庄を領有する渋谷氏・渋谷一族。治山治水、経世済民、懸命の日々だった。高重、鎌倉を舞台に弁舌巧みであったが、分別の欠ける面もあった。近隣四囲の氏族との交誼(こうぎ)、また武蔵七党の横山氏との婚姻等、鎌倉の府において地歩(ちほ)を築きつつあった。この頃、重国、意図してか老齢によるものか、高重にその言動を譲る機会が多くなってきていた。重国にとって高重は渋谷一族の星だったが、鎌倉の府における言動に一抹の危惧を抱いていた。

 光重は本来、惣領であったにもかかわらず、父・重国の意を体(てい)し己の分を心得て、一族一党を纏(まと)めて内政に意を尽くした。高重の鎌倉出仕の報告の中に、頼朝の奥州藤原氏への圧力が強まってきている事を感じていた。奥州出兵が間近に迫っていた。

 一方、奥州平泉、清衡・基衡・秀衡藤原三代、心血を注ぎ築いた仏教都市だったが、泰衡、父・秀衡の遺言、義経殿を擁して頼朝と対決せよとの言葉を、列座の臣達の前で、義経の前で、如何なる想いで聞いていたのか…!?

 秀衡没後、藤原家・泰衡の雰囲気が微妙に変わっていくのを感じていた義経主従だったが、庇護を求めて赴いた先で戦いの準備をしたり、備えを固めたりするのも憚(はばか)られ、ただ迫り来る危機の情報に運命を委ねるのみであった。

 浅はかにも泰衡、ここに衣川(ころもがわ)の舘(やかた)に籠る!?義経を襲う。時に文治5年(1189年)4月30日の事だった。平泉の屋形より半里足らずの義経の衣川の舘に藤原の軍勢は殺到した…が、しかし、その手前に遠望できる位置に高舘(たかだち)と呼ばれていた、弁慶をはじめ主だった家人(けにん)達の居舘があった。

 もとより勝敗は自明の理。生きる事など念頭になかった。義経延命・脱出のため一刻でも防禦柵(ぼうぎょさく)の役目が果たせればと、身を挺して戦ったが所詮、多勢に無勢。今は弁慶、針鼠の様になりながら、薄れゆく意識の中で京の五条大橋の袂での牛若丸との邂逅、千振りの剣を求め千振り目の運命の出会いだった。その時より生死を共にする主従の絆を結び…走馬灯の様に去来する義経と源氏再興を賭けた修羅の日々。敵前を忿怒(ふんぬ)の形相で睨んだまま、こと切れていた。しかも、立ったままで…!?後の世に言う、弁慶の立往生はこの時である。

 これより500余年後、元禄の頃、松尾芭蕉、奥の細道紀行文。念願であった高舘に立ち寄った。目と鼻の先で、日本史上稀有の武将・義経の最期。時代が受け入れてくれなかったとはいえ、生かしてあげられなかった弁慶の無念。芭蕉、高舘の辺(ほとり)で凝然と佇み、慟哭して詠った。

「夏草や兵どもが夢の跡」

【文・前田幸生】
 

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