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綾瀬版 公開:2016年10月7日 エリアトップへ

〈第27回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる27 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年10月7日

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 思えば重国、頼朝の来訪の報を受け、頼朝石橋山の旗上げの際、同族・大庭景親等の佐々木一族支援の非難もあり、参戦参陣の断念を余儀なくされ、また頼朝、軍勢・戦力の大差により惨敗。土肥実平、藤原景時等の機転により危機一髪を脱し、安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)へと逃れ、桓武平氏の流れを汲む武将達の援(たす)けを受け、鎌倉へ反転。苦境に立った渋谷一族、図らずも佐々木一族の配慮を得る。

 そして平家討滅。重国、一族郎党、従軍・出陣の度に必死に戦功を挙げ、驕る事なく仕えてきていた…等々いつも沈着冷静だったが、今これらの事が走馬燈の如く巡り、心の整理に手間取った。この時代、武家の棟梁たる者、親族・一族以外の氏族家門に赴く事は、例外中の例外だった。既に渋谷家、頼朝の帷幕側近達の信頼も得ていたのか!?

 かくてこの夜、重国・高重・光重、一族の面々、胸襟(きょうきん)を開き虚心坦懐(きょしんたんかい)の会話が、武勇談が酒宴を伴にしながら、頼朝・側近達と深更(しんこう)まで続いた事だろう。重国にとって、生涯の記憶に残る一夜となった事だろう。近隣四囲の氏族・一族一門への渋谷家、重国、暗黙の存在感の誇示となった。今や東国の相模の国の一角に於いて、渋谷氏は名実共に鎌倉の頼朝の御家人として、揺るぎない絆を得たのだった。

 想えば重国、頼朝が石橋山に於いて旗上げ以来、一時(ひととき)、時代の流れの見極めに苦慮したが、頼朝に随従する事10年。武蔵・安房・上総・下総・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)・相模の武将達を膝下(しっか)に伺候(しこう)させた頼朝に表裏(ひょうり)なく、度量の武人として華やかな行事も質素な催し物もきっちりと淡々と果たし、信頼を深めていく渋谷氏だった。

 頼朝、念願だった全国の掌握成り、朝廷・後白河院へ戦後の処理や展望を報告せねばならなかったが…。朝廷・後白河院の再三の上洛の要請に腰を上げようとはしなかった。頼朝、父祖の代より武家の棟梁たる征夷大将軍の位を心中で願っていたが…。建久元年(1190年)10月、頼朝上洛を果たす。帷幕の…!?朝廷の密かな説得工作があったのか。

 ともあれ頼朝、大江広元を始め、有識故実に通じた側近達の意見を容(い)れ、前代未聞の武者行列を催し、京洛の地を威風堂々と行進したのだった。父祖代々の念願だったこの行列、頼朝の感慨は如何ばかりであったろうか!この時は渋谷重国・高重等は鎌倉の留守を預かる大事な立場だった。

 後白河院、稀代の交渉上手だった。頼朝、征夷大将軍の官職を得られず、晴れて念願の官位に就けたのは建久3年(1192年)7月の事だった。

【文・前田幸生】
 

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