綾瀬版 掲載号:2017年9月8日号

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
 梶原景時、二代将軍・頼家より示された弾劾状を凝視。一瞬の沈黙が流れたか…!?頼家とて、景時より父・頼朝の代よりの功績を楯に詰め寄られるのを、心中では覚悟していたが…。一言の申し開きもせず、頼家の御前を退出した。後世、武士の潔さの典型として鎌倉武士が語られているが、景時、鎌倉幕府創業に貢献した将として、大きな自負もあった事だろう。弾劾状を目の当たりにして絶句だったか…!?怒り心頭を圧(お)さえたか…!?景時、見事な自己抑制だった。二代将軍・頼家にとっても景時を失う事は大きな痛手だった。景時、頼朝の乳母夫(めのとぶ)の一員だったのだが…。今、頼家、二代将軍という名の傀儡であった。

 一方、渋谷高重。景時弾劾状に名を連ねた以上、渋谷一族郎党一堂に会し、鎌倉の府の有力な側近・幕閣達の巧妙な政事の駆引の世界に身を置かねばならぬ事等々、嘗て父・重国が背中で示してきた事を切々と訴えた。高重、景時追放の事、祖を同じくする一族だったが、父・重国が、祖父・重家が吉田荘(よしだのしょう)、渋谷荘(しぶやのしょう)と、開拓領主として営々と築いてきた領土、その領土の境界に景時の本家・大庭氏との長い境界線があった。

 憶(おも)えば平治の乱(平治元年〈1159年〉)に敗れ奥羽に落ち延びて行く佐々木秀義一行を引き留め、また治承4年(1180年)8月、石橋山の合戦に頼朝の許に馳せ参じた佐々木兄弟、敢無く惨敗。この時、平家方の大将格の大庭景親より、佐々木一族の妻子を拘束する様、容喙(ようかい)してきたが、これを穏便に回避。大庭氏とて、兄・景義と計り一族の生き残りを模索していかねばならなかった。高重、大庭氏・梶原氏等領土を接しながら、今日までの領土経営だった。

 鎌倉の府に勤仕していても、胸襟(きょうきん)を開き虚心坦懐に語り合った事もなかったが…。さりとて景時弾劾に、大勢(たいせい)に流されたのではとの忸怩(じくじ)たる思いがあった。あの雰囲気の中で一言の意見も反論も出来ず…己を責めていた。ましてや黙して語らず、粛々と鎌倉の居館を引き払い、本貫地(ほんがんち)相模一宮の居館に拠(よ)った。景時、鎌倉の府に、幕閣に、その人有りと認められ、朝廷に於いても鎌倉の本躰(ほんたい)の武士と評されていた。これだけの地位に、立場にあった景時、失意に沈んでいたか、反攻を画策しなかったのか…!?軽挙妄動は慎まねばならなかったが、惣領梶原家の一族郎党の事を想う時、景時流石に決断が乱れた。

 相模一宮に拠って乾坤一擲、一戦を交えるか、同志の武将・氏族等を募りながら上洛を果たし再起を謀るか!?ここ相模一宮の居館は、楯籠(たてこも)るには砦の要素さえ備えていない館だった。ましてや、その北方半里強程の位置に、相模国一宮寒川神社が昂然と鎮座していた。景時、ここで神域や周辺の領民を巻込んでの鎌倉への抵抗に躊躇があった。

 【文・前田幸生】

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