鶴見区 コラム
公開日:2026.07.02
「土木事業者・吉田寅松」71 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
吉田寅松が他界
自動車運輸株式会社の創立委員として、福沢桃介(福沢諭吉の婿養子・電力王)、佐久間福太郎(日清紡績設立発起人)、吉田真太郎、菊池武徳(政治家・ジャーナリスト)、大河内輝剛(歌舞伎座社長)などが名を連ねている。
土木業界の巨頭とも称された吉田寅松の末路は悲惨だった。明治四十年十月二十六日、吉田寅松が他界した。
女丈夫で名を馳せていた妻の芳子は、人に勧められていろいろな事業に手を出したが、ことごとく失敗に終わり資産を傾けた。明治四十五年には高利貸しから借りた二百六十四円の返済ができず、芝公園の豪邸も競売にかけられた。
苦境がつづくなか、寅松の長男・真太郎は、大倉財閥の御曹司大倉喜七郎から全面的立て直し案を受け入れ、明治四十二年、大倉二万三千円、石沢愛三千円、真太郎千円の出資しで「大日本自動車製造合資会社」を設立した。
しかし、予約販売を試みた「ちどり号」も販売不振で、東京自動車製作所は経営不振がつづた。国産車を製造しても売れる見込みがたたず、輸入したフランス製ローリングを浅野総一郎や出版社博文館社主に、英国製ハンバーを渋沢栄一に売った程度で、輸入車の販売も伸び悩んでいた。
販売するよりも試乗させたほうが利益は出るということになり、四人乗り自動車で貸自動車をはじめた。これはわが国貸自動車業(ハイヤー)のはじまりである。
初めての運転手派遣業
真太郎と大倉喜七郎の意見は合わなかった。真太郎は、自動車製造会社を退社し、明治四十四年一月に芝区田町に「合資会社吉田商店」を設立した。三井物産が輸入した自動車の販売と修理を引受け、店を麹町区有楽町三丁目三番地の三井物産機械部内に移した。
自動車購入者に運転手を派遣するために運転手の養成機関をつくり、真太郎自身が明治四十二年に作成した「自動車取扱心得」を使って運転手を養成し、「運転手同志会」を創設。日本製鋼所、服部時計店、芝浦製作所、東京府庁、浦賀船渠会社等、自動車を販売した会社に派遣した。これは、現在の運転手派遣業の草分けといわれている。
三井物産の知名度と真太郎の努力にもかかわらず自動車は思うように売れなかった。試乗を何度もするが買わない。在庫が溜まる一方となり、三井物産では自動車の販売をあきらめ、自動車販売から手を引き、機械部の社員梁瀬長太郎に業務を一任した。
梁瀬長太郎が引き受けて間もなく第一次世界大戦が勃発して自動車の輸入が途絶え、戦争成金とよばれるにわか富豪が生まれて、在庫の車が飛ぶように売れた。梁瀬は大正九年に三井物産から独立して資本金五百万円の梁瀬自動車株式会社と百万円の梁瀬商事株式会社を設立した。
大正十四年に日本フォード自動車株式会社を横浜に設立したときの 資本金が四百万円、それに対抗して昭和二年に大阪に日本ゼネラル・モータース株式会社を設立したときの資本金が三百万円だった。当時の梁瀬自動車は外国資本にも勝る巨大企業だった。株式会社ヤナセに発展する梁瀬自動車の創業者梁瀬永太郎は、天運に恵まれていた。
一方、日本で最初の運転手派遣業、自動車教授書の作成、自動車教習所の開設など、吉田寅松の長男真太郎は、自動車界の第一人者として、今日につづく車社会の基礎を築いた人物であったが、度重なる不運に見舞われてしまった。
真太郎は、わが身の不運を嘆きながら、白銀台の豪邸も手放し、麻布区飯倉六丁目の借家に暮らしていたが、大正六年三 月、知人に誘われて、新橋駅前の芝区烏森一番地に合資会社八千代自動車を創立してハイヤー業をはじめた。
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