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綾瀬版 公開:2015年6月12日 エリアトップへ

〈第12回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる12 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年6月12日

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 世に言う平氏都落ちであった。平家一門、事もあろうに連綿として築き築かれた京の文化・政治・経済の中枢・神社・仏閣・歴史的建造物を容赦なく灰燼(かいじん)に帰(き)しせしめた。

 平氏の動静に、ただならぬ気配を察した後白河院及び近臣(きんしん)達は急遽、比叡山延暦寺へ避退していたが7月27日、京都に戻った。時を同じくして義仲もまた、近隣勢力・延暦寺勢力を糾合(きゅうごう)して7月28日、入京した。思えば義仲、木曽の山中で以仁(もちひと)王の平氏打倒の令旨を治承4年(1180年)4月、受けてより3年有余の戦いの明け暮れであった。

 さて、平氏を駆逐し入京した義仲、京都の貴族・庶民から英雄として迎え入れられた事だろう。が…しかし、荒廃した消費都市京都では物資の流通も停滞を余儀なくされ、義仲軍直属の氏族が少なく、寄せ集めの氏族・僧兵、また同格の武士団の集合体であったため、軍律・統制が全軍に届かず京都の人々による義仲への期待は次第に失望へと変わってゆく。

 また、一番の問題は朝廷との軋轢(あつれき)が顕在化したことだった。義仲、武勇に勝(すぐ)れた将だったが所詮、老獪な後白河院や朝廷の近臣達に翻弄され、対立を深めていく。一度は京を捨てた平家だったが、清盛が残した宋貿易で築いた財産や拠点が、瀬戸内海の津々浦々で結集。立て直しの時を与えてくれた。

 京・朝廷では後白河院、義仲の処遇に窮(きゅう)していたが、平氏、捲土重来(けんどちょうらい)を期し京に迫りつつありとの報に接し義仲に西海(せいかい)の平氏討伐を命じる。一方、後白河院、頼朝へ東海道・東山道の軍事警察権を認めた。

 この件は義仲、後白河院への不信感を一挙に募らせ、院を意のままに強制出来る立場に就き、征東(せいとう)将軍・征夷大将軍となり頼朝追討の院宣(いんぜん)を発給(はっきゅう)させた。が…しかし時すでに遅く、義仲追討の手が打ってあったのだ。義仲、頼朝と祖を同じくしながら何の因果か…!?唯の一度も相見(あいまみ)える事もなく、後白河院の掌中で踊らされていたのか!?結果として平家追討を頼朝の先陣・先払(さきばらい)としての役目を果たしただけだったのか!?義仲、信望・信頼の結果として院宣を下賜された理由(わけ)ではなかったので、義仲軍の統率、綻びが生じ始めていた。

 元暦元年(1184年)正月、義仲追討の為、源範頼・義経の軍が鎌倉を出陣した。そして義経の軍勢の中に渋谷一族の雄姿があった。一路、京へ義仲打倒の軍旅だった。

【文・前田幸生】
 

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