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綾瀬版 公開:2016年1月15日 エリアトップへ

〈第19回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる19 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年1月15日

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 渋谷一族・重国、鎌倉の頼朝の命とはいえ、畿内・西国・九州と長駆(ちょうく)の遠征に従軍・戦功を挙げ、胸中誇りと論功行賞への期待は大であった事だろう…が、重国、微塵も戦功を誇る素振りも見せず虚心坦懐(きょしんたんかい)の言動だったが…。千慮(せんりょ)の一失(いっしつ)だったか…?成り行き上の結果か?渋谷重助、義経に随行して後白河院の許に伺候(しこう)していた事が頼朝・帷幕の将達の論議の対象となり、渋谷一族の論功行賞に瑕疵(かし)が発生する。一族の命運を賭して戦ってきた戦陣・戦場の干戈(かんか)の響きが走馬灯の様に脳裏を過(よぎ)っていた。重国とて桓武天皇を祖と仰ぎ、誇りを持って桓武平氏・秩父平氏として東国に営々として今日(こんにち)を築いてきた渋谷一族の棟梁だった。歴史の変遷の中で思わぬ運命の展開が生じる事がある。頼朝大業半ば成った今、思えば石橋山の旗揚げ以来就き従って頼朝のため懸命に戦場で帷幕の裏方で働いてくれた武将達。大半以上は桓武平氏の将達だった。源氏の棟梁として忸怩(じくじ)たる思いがあった事だろう。

 平家平定が概ね目処がついた頼朝、論功行賞の差配に苦慮の日々が続く。義経の腰越状(こしごえじょう)は、鎌倉を指呼(しこ)の間(かん)に臨みながら儚くも遠かった。義経、側近達の強い説得に、断腸の想いで京へと発って行った。結果として頼朝の遠大な戦略に水を差し、鎌倉へ受け入れて貰えなかった義経主従、今は京への歩を速めていた。時に義経、後白河法皇の許しを得、文治元年(1185年)10月、京で挙兵するおよそ半年ほど前の事だった。一方、渋谷重国、論功行賞の差配は渋谷一族を束ねていくために大きな関心は払っていたが…。今は頼朝の御家人として、何かと伺候の機会が増していた。高重帷幕の幕僚として、重きを成しつつあった。平家平定に際し祖を同じくする秩父の畠山重忠、数々の活躍があり、源平両軍に高重と共にその人ありと知られた武将だった。高重、鎌倉出仕の折は何かと会話が弾んだ事だろう。

 思えば畠山重忠、頼朝の旗揚げの時、平家方だった。三浦半島に割拠していた三浦一族、祖を同じくする氏族だったが当時、紛れもなく源氏方で永承6年(1051〜62年)の前九年の役、源頼義に従軍し戦功を挙げ、永保3年(1083〜87年)の後三年の役、源義家に従軍、東国武士として源氏との主従の絆を築いていた。三浦一族、頼朝旗揚げの報に接し一路石橋山への急行を試みるも時は8月、幾条もの大河の激流に阻まれ、石橋山を断念、拠点衣笠城へ引返す途中、これも平家方として石橋山へ急行していた畠山軍と由比ヶ浜あたりで遭遇。三浦一族、頼朝救援間に合わず…。また畠山方、状勢判断の上、頼朝方へ就く事となる。この事、渋谷氏ともども後々まで苦渋の思いを背負っていく。高重・重忠この事について話は尽きなかった事だろう。【文・前田幸生】
 

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