野球を始めたのは中学校に入学してから。「遅れを取り戻すために何が必要か」を自己分析し、効率的な練習メニューを組み立てるクレバーな選手だった。努力を重ねた結果、エースナンバーを背負うまでになった。
高校野球も同じスタンスで挑むつもりだったが、
入学間際の春の公式戦で衝撃を受けた。ベンチに入れず、用具係としてグランドの脇を駆けまわっていると、相手チームのブルペンに東海大相模高の一二三慎太投手が剛球を投げ込んでいた。「これが高校野球のトップレベルか-」。夢を感じた一方、絶望感が押し寄せた。
その後の3年間は、控え投手に甘んじた。誰よりも走り込み、練習量では負けない自信があったが結果が出せない。ワンポイントでのリリーフを想定して変化球を磨き、チャンスを待ったが、最後の夏も出番は訪れなかった。
県予選の開会式。入場行進でプラカードを持った。試合を控えるレギュラーメンバーは練習が忙しくなるため、控え選手が担当するのが慣例。「チームのためにできることはないか」そんな思いを抱いて志願した。自分が戦いの場に立てない悔しさは胸の奥にグッとしまいこんだ。
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部活動を引退し、大学受験に挑んだが志望校へは進めなかった。「野球も勉強も結果を伴わない努力はただの自己満足」。不完全燃焼のモヤモヤを残す3年間となった。
大学入学後は高校時代の苦い経験を振り払うように、地域活動にまい進。
努力の限界点を意識するようになった。学生団体を立ち上げ地域活性や教育問題に真っ向から挑みこの春、市議選にチャレンジ。選挙戦では喉がつぶれるまで声を張り上げ、市中を駆けまわり政策を訴え、横須賀史上最年少で当選を果たした。
「限界のその先。今なら超えられる」
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