連載 第19回「静かな入江の東京湾?」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「しら鳥はかなしからずや海の青そらのあをにもそまずたゞよふ」と詠じた若山牧水は、夫人の病気療養のため横須賀の長沢に転居して来たのは、大正四(1915)年の三月のことでした。その年に『岬の端』という作品を書いています。三浦半島の東京湾側について次のように記しています。
「細かな地図を見ればよく解るであろう。房総半島と三浦半島とが鋭く突き出して奥深い東京湾の入口を極めて狭(せま)く括(くく)ってゐる。その三浦半島の岬端から三・四里(り)(約12・16キロメートル)手前に湾入した海辺(横須賀市長沢)に私はいま移り住んでゐるのである。で、その半島の突端の松輪崎といふのは私たちの浜からはやゝ右寄りの正面に細く鋭く浮かんで見ゆる。方角はちょうど真(ま)南(みなみ)に当る。前面一帯は房州半島で、五・六里(り)沖に鋸山や二子山が低く聳(そび)え、左手浦賀寄りの方には千駄ヶ崎といふ小さな崎が突出(つきで)てゐる。だから眼前の海の光景は一寸(ちょっと)見には四方とも低い陸地に囲まれた大きな湖のやうで、風でも立たねば全く静かな入江である。」(中略)
現在では船の往来もはげしく、鯨までもが迷い込むほどの東京湾を、牧水は「大きな湖」と述べています。
さらに、この「沿海」はどうなっていたのでしょうか。『岬の端』は、さらに続きます。
「或日、とりわけ空の深い朝であった。食後を縁側の柱に凭(よりかか)ってゐたが、突然座敷の妻を見返った。『オイ、俺は今から松輪まで行ってくるよ、いいだろう。』『今から?』とは驚いたが、かねて行きたがってゐるのを知ってゐるので、留めもしなかった。」(略)
その海沿いの様子について、次のように記しています。
「雪の様(よう)な浜は尽きて真黒な岩の磯が現れた。浪の音が急に高く、岩上に吹く松風の声もありありと耳に立つ。兎(と)も角(かく)もと私は其処(そこ)に腰を下ろした。」(中略)「大概(たいがい)(だいたいの意)の見当(けんとう)をつけて崖を這(は)ひ上ってみると果(はた)して小さな路があった。今度は下駄を履いて松や雑木の間を辿(たど)る。ずっと見はるかす左手海の面がいかにも目新しく眺められて、ツイ下の磯の深い浪の間には無数に魚が群れて居(い)そうに思われる。小さな丘を越すと一つの漁村があった。金田といふ。もう一つ越すとまた一つあった。狭い渓(たに)みたいな所に二、三十戸小さな家が集まってゐる。」(後略)
当時、現在の「高抜」あたりから、山道を往来したのでしょうか?
(つづく)
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