連載 第60回「『新編三浦往来』より」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
この書は江戸時代の天保十五(1844)年の初春に書かれたもので、三浦半島の名所旧蹟、産物などを児童に教えるために書いたものです。著者は横須賀市大津の池田に居住する竜崎戒珠という人です。
寺小屋の師匠として、子供たちに読み、書きを教えるための教科書であったと言われています。全文は漢文で書かれています。
ここでは、当時の三浦市内の産物などの紹介をとり上げます。全文が漢文のため、筆子なりの訳文で記しています。
「(前略)上宮田・菊名・金田の辺では、大きな地引き網を使って多くの魚を漁していたところなり。」と記されています。さらに「松輪は海苔(のり)、毘沙門では『松露(しょうろ)』という、砂地の松林などに四、五月頃に生える『きのこ』の一種を示しています。さらに浜方では『和歌布(わかめ)』をあげています。宮川の地では「磯藻」を示しています。
向ヶ崎へ出て、三崎は『七三崎之(の)内ニテ景色ノ能(よ)キ所也(ところなり)』と記し、「鰹鰤(かつおぶり)其ノ外諸漁場也(ほかしょりょうばなり)」とあって、さらに、「此ノ地モ海関ノ御番所之(これ)有リ、城ヶ嶋毎夜ノ篝火(かがりび)ハ諸国廻船目当(めあ)テノ焼火也(たきびなり)」と記し、さらに「鎮守海南大神明、此ノ地ニ於(おいて)毎年正月十六日大百万遍(ひゃくまんべん)ヲ興行、賑(にぎわい)ナルコト大祭ノ如(ごと)シ」とあり、現在の「チャッキラコ祭」につながっているようです。
歩は二町谷へと進み、「辛螺・栄螺(さざえ)」を産物としてあげ、さらに諸磯網代については、「入江の鰡(なよし)(ぼら)、蛸(たこ)、烏賊(いか)」をあげています。また、「此ノ地ハ昔シ佐原十郎義連ノ嫡孫綱代ノ道寸義同義意(よしあつよしもと)ノ居城(きょじょう)跡、荒井ノ城是(これ)ナリ、三方ハ皆切崖(きりぎし)ニテ鳥モ翔(かけり)ガタキ、大難所(なんしょ)ナリ。誠(まこと)ニ堅固ノ城郭(じょうかく)ト見ユ、今モッテ、千駄矢倉(やぐら)ト云フ岩窟(がんくつ)、之(これ)有ルナリ。」と記されています。話は下宮田方面へ移ります。
「三戸、下宮田、矢矧(やはぎ)ハ入江ノ小漁場、平目(ひらめ)、鯵(あじ)、王領(かれい)魚ナド」とあって、「和田蕪菜(かぶな)、唐之芋(からのいも)の類(るい)」と畑の産物をあげ、さらに、「此(この)村ニ和田義盛公ノ古城跡、コレ有リ、則(すなわ)チ鎮守「白旗(しらはた)大神明ヲ祭ル」とあって、さらに飯森の箏(たけのこ)、鹿穴の莚蓙、元屋敷の青蜜柑(みかん)、高円坊大根、須軽谷の瓜を、それぞれあげています。
以上、東側の海岸から三崎、城ヶ島を回って西方の小網代、三戸を経て、初声の台地の農作物を上げています。
蜜柑や大根は、現在でも、三浦の名物となっています。また、この頃の三崎では「鮪(まぐろ)」はあつかいません。むしろ「鰹」
が主流でした。 (つづく)
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