平成元年(1989)
消費税3%が4月に導入され、市内企業でも価格見直しが行われた。神奈川大学平塚キャンパス(現・湘南ひらつかキャンパス)が土屋に、市内15校目の中学校・旭陵中も開校した。市総合公園は昭和60年着工の2期工事が完了、管理事務所やレストハウスなど11施設が開所した。
平成2年(1990)
「相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990」(通称・サーフ90)が夏に開催、市内会場の平塚海岸と湘南海岸公園に約42万人が訪れた。海岸に設置されたボードウォークは開催後も残された。初の国際姉妹都市の提携先が米国カンザス州ローレンス市に決定、9月に調印した。
平成3年(1991)
市総合公園では総合体育館やテニスコート、動物園が落成、昭和57年着工の整備が完了し、3月全面オープンした。市美術館も3月に開館、スイスのプチ・パレ美術館が所蔵する作品展が開かれた。市長選は、現職の石川京一氏が新人の吉野稜威雄氏を約4200票差でかわし4選を果たした。
平成4年(1992)
人口25万人を突破した同年。デートスポットの湘南平で、テレビ塔展望台の金網に南京錠をかけて愛を誓う願掛けが前年9月頃からブームに。5千個以上が取り付けられ、景観を守るために管理者と市が撤去した。政界では地元選出の衆議院議員・河野洋平氏(当時55)が12月、宮澤喜一改造内閣で内閣官房長官に任命された。
平成5年(1993)
フジタサッカークラブが5月、「ベルマーレ平塚」に改称。ジャパンフットボールリーグ1部で優勝し、ジュビロ磐田と共にJリーグ正会員への加盟を勝ち取った。市内3番目となる西図書館が5月、山下に開館した。
平成6年(1994)
石川市長が任期限りで退任する意思を9月議会で表明した。市議会では12月に議員定数を36から2減。国政では秋に小選挙区の区割りが発表され、平塚市は茅ヶ崎市と神奈川15区に決まった。全国8番目のコミュニティFM局「ナパサ」が7月に開局。豊田に新車検場が完成し、湘南ナンバーが10月登場。J1年目のベルマーレ平塚は後半のニコスシリーズで準優勝し、年間5位と躍進。天皇杯でも優勝した。JR「湘南平塚駅」への改称運動も盛り上がった。
平成7年(1995)
阪神・淡路大震災が1月に発生、市内で募金活動など救援の輪が広がった。友好都市との災害協定など、市は危機管理や防災体制の再構築に取り組んだ。4月市長選で吉野稜威雄氏が初当選。改選後の市議会では、小選挙区導入で河野系と亀井系の保守会派が合体、最大会派の湘南クラブが結成された。海岸ボードウォークに隣接する湘南ひらつかビーチセンターが6月に完成。ベルマーレは中田英寿氏が入団。アジア・カップウィナーズカップで優勝した。
平成8年(1996)
小選挙区制に移行して初の衆院選が10月実施され、河野太郎氏が初当選を果たした。市内桃浜町の道場で数々の囲碁棋士を育てた木谷實九段の存在が脚光を浴び、囲碁多面打ち大会が初開催された。インターネット普及を受け、市は12月にホームページを開設した。
平成9年(1997)
相模川を挟み大神地区と20年以上誘致合戦の続いた新幹線新駅の候補地が11月、寒川町倉見へ正式決定。県の岡崎洋知事は大神と倉見を一体整備するツインシティ構想を発表した。平塚警察署新庁舎が3月完成、見附町跡地は駐車場に。サッカーW杯アジア予選でベルマーレ所属の小島伸幸、呂比須ワグナー、中田英寿の3選手が代表として仏大会への切符を勝ち取った。12月にMNビル前で祝賀会が開かれ、韓国代表の洪明甫を含む4選手を市民が祝った。
平成10年(1998)
平成6年着工の日向岡トンネルが5月開通、10月には湘南銀河大橋(全長約520m)が開通した。かながわゆめ国体開会式が5月、市総合公園で開催。サッカーW杯仏大会はベルマーレ4選手が出場した。夏の高校野球は、80回記念の西神奈川大会を平塚学園高が制し、甲子園に初出場した。
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