中原区 社会
公開日:2026.08.14
戦禍の記憶【3】 中原区宮内在住 原照枝さん(93) 戦後も続く、空襲の恐怖 「まるで昼間のようだった」
1933年、中原区上小田中の農家に生まれた。父親は出征し、祖父母と母親とともに家や畑を守りながら幼い弟妹の面倒を見る日々が続いた。
1945年4月、今も鮮明に記憶に残る、激しい空襲があった。昼間にB29が低空で飛来したのを見た近所の年配者が「今晩は危ないぞ」と近隣に言って回った。急いで家財道具をリヤカーに積み込み、家族みんなで家から離れた川の方へ避難した。その夜、実家の目の前にあった富士通(旧富士通信機製造)の女子寮や神地(ごうじ)地区が一斉に空襲を受けた。家に戻ったのは夜中のはずだったが、「まるで昼間みたいだった。全部燃えて、明るくて、真っ赤なの」。幸いにも自宅は焼失を免れたが、目の前の寮や近隣の家々、通りは面影もなくなるほど焼けてしまっていた。
8月15日、ラジオのある家に近所の人たちと集まり、正座をして玉音放送を聞いた。「その時私はまだ12歳。何を言っているか分からないことばかりだった」。だが、一緒に放送を聞いた大人たちの「戦争が終わったよ、日本が負けたんだ」という言葉に、幼いながら事の重大さを感じ取った。
今も忘れられない二度目の恐怖
戦時中は家の近くの寺院で勉強をしており、戦後、学校に通えるようになったもののそこにも戦争の恐ろしさは潜んでいた。校庭の隅には、戦時中に回収された高射砲の破片や空襲によって壊れた建物や道路のがれきなどといった危険物が積み上げられていた。ある日の朝、それが突然爆発を起こした。校内外で大騒ぎとなり、生徒の救出にあたった校長先生の両手が血まみれだったことを今でも覚えている。「終戦の後も怖い思いをした。忘れられないね」
にぎやかな日々大切に
卒業後は農家を手伝い、やがて近隣の宮内へと嫁ぎ、専業主婦として家族を支え抜いた。戦後に生まれた兄弟は、当時のことをほとんど覚えていない。「物を大切にして、家族を守って、一生懸命生きてきた。二度とあんな怖い思いはしたくない」
現在はひ孫にも恵まれ、にぎやかな毎日を送る。平和な暮らしの中で家族の成長を見守っている。
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今年で戦後81年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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