八王子 コラム
公開日:2026.05.14
―連載小説・松姫 夕映えの記― 第8回 作者/前野 博
(前回からのつづき)
その度に松姫が翻弄されたりしていないか、嫌な思いをして心を痛めていないかと心配していた。
「お松、武田攻めの織田の総大将は信忠じゃぞ」
「存じております。松には信忠殿に対して何の思いもございません。武田へ攻め入ろうとする敵の大将にしか過ぎません。兄上様、存分に戦いの上、切り取った信忠殿の首を松めにお見せください。松は武田信玄の娘です」
松姫は毅然として言った。新府城の夜空に浮かぶ月が一段と輝きを増し、白峰から吹く風が音を立て庭の落ち葉を舞い上げていた。
二月になり、織田方の調略に応じた木曽義昌が勝頼に対して反旗を翻した。それを契機に織田軍の武田討滅への大攻勢が開始された。駿河口から徳川家康、関東口からは北条氏政、飛騨口からは金森長近が進軍し、織田信忠軍五万は東美濃から入り伊那口へ軍を進めた。
「義昌殿が裏切るなど信じられません」
「前々から美濃の方面とは繋がりを深めていたとは聞いていた。織田の調略にうまく乗せられたということだ」
仁科信盛は武田家の力の衰えを感じていた。木曽の裏切りの影響は大きく、この先同類の者が続くであろうと予測できた。
「姉上はどうしていらっしゃるか? 姉上が義昌殿を許すはずはありませんもの」
木曽義昌の正室・真理姫は松姫の実姉であった。信玄の側室・油川夫人には真理姫、仁科信盛、葛山信貞、松姫、菊姫の五人の子どもがあった。真理姫は松姫にとって美しいあこがれの姉であり、真理姫も妹を大層可愛がり慈しんでいた。
「勝頼殿は、義昌征討の軍を出発させているはずである。出陣にあたって、敵の人質は処刑されるのが常である。如何とは思うが、やはり仕方ないものか!」
〈続〉
◇このコーナーでは、揺籃社(追分町)から出版された前野博著「松姫 夕映えの記」を不定期連載しています。
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