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横須賀・三浦 コラム

公開日:2026.06.12

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第47回 文・写真 藤野浩章

  • 井伊直弼像(横浜市西区・掃部山公園)

    井伊直弼像(横浜市西区・掃部山公園)

  • 三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 (写真2)

「江戸には乱気が立っている」

 安政5(1858)年、米総領事・ハリスの執拗な交渉により、ついに日米修好通商条約が調印された。これは不平等条約として後世の課題になったが、その1つの治外法権については家康以来の「祖法」に適(かな)っていたために、むしろ進んで受け入れたという。当時の刑罰は米より日本の方がはるかに重かったこともあるだろう。また関税は、当時のアメリカは40%で、日本側は20%と諸外国と同様の水準だった。ハリスは「今、米と調印しないと英・仏がやって来る」と徹底して恫喝(どうかつ)し、幕閣を悩ませる。そこで老中・堀田正(まさ)睦(とし)は孝明天皇の勅許を得て調印することを画策する。

 一方この時、廃人同様になっていたと言われる13代将軍・徳川家定の後継をめぐり、彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)を筆頭とし開国路線を主張する南紀派と、攘夷派のボスとも言える前水戸藩主・徳川

斉昭(なりあきら)を中心とし、外様大名も多く賛同する一橋派が激しく対立していた。

 もともと南紀派だった堀田は、条約の勅許を求めて朝廷工作をするが、ことごとく反対される。そこで打開のために一橋派に接近するが、彼が京都にいる間に何と"あの男"のクーデター的な登場で失脚してしまう。

 それはもちろん、井伊直弼。彼は大老として幕府を掌握し、一橋派を一掃。後継将軍は徳川慶福(よしとみ)(14代家茂(いえもち))となり、条約も勅許なしでの調印と一挙に進んでいく。

 冒頭の勝のセリフは、政争に巻き込まれた幕府関係者の共通の感想だったろう。そんな中、条約の批准(ひじゅん)書交換のために使節をアメリカへ送る話が持ち上がる。

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