戻る

横須賀・三浦 コラム

公開日:2026.09.04

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第59回 文・写真 藤野浩章

  • 蛤御門(京都市上京区)

    蛤御門(京都市上京区)

  • 三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 (写真2)

 薩摩が英国と戦闘状態に入った直後、今度は都で異変が起こる。長州藩の暴走に嫌気がさした孝明天皇と公家の一部、そして薩摩の島津久光、会津の松平容保(かたもり)らがクーデターを起こし、朝廷から長州藩を排除する事件が起こる。いわゆる八月十八日の政変だ。

 翌元治(げんじ)元(1864)年になると、京都での勢力挽回を企てて潜伏していた長州藩士が新撰組に襲われる池田屋事件を経て、ついに長州藩と幕府軍が戦闘することになる。この時、あろうことか御所に向けて攻撃したことから(蛤御門(はまぐりごもん)の変)、長州は"朝敵"となり、全国の藩に動員をかける「第一次長州征伐」が始まる。ここに参謀として加わったのが勝海舟と西郷隆盛だ。

 さらに八月には前年の砲撃の報復として英仏米蘭の4カ国が下関に砲撃し、壊滅状態に。これを聞いた三郎助が心配したのが、桂小五郎だった。彼は病床の三郎助を見舞うなど、家族ぐるみの交流が続いていたのだ。

 しかし長州による一連の動きの影響は大きかった。4カ国に対しては幕府の年間歳出の26%に当たる賠償金を肩代わりしたのに加え、長州征伐は後の二次も合わせて、現在の価値で総額五千億から一兆円ほどかかったという。これが追い打ちとなり、幕府は事実上の財政破綻となったのだ。

 その時財政を切り盛りしていたのが、他でもない小栗上野介。しかしそんな状況の中、彼は11月に巨費を投じる横須賀製鉄所の建設を正式決定させる。これがどれほど異質なものだったか、お分かりいただけるだろう。

 視察のついでに浦賀へ寄った小栗は、海軍の権威となっていた三郎助と対面する。

横須賀・三浦 人気記事ランキング

  • 前日
  • 1週間
  • 1か月

横須賀・三浦 人気記事ランキング

  • 前日
  • 1週間
  • 1か月

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

横須賀・三浦 コラムの新着記事

横須賀・三浦 コラムの記事を検索

コラム

コラム一覧

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS