横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.08.28
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第58回 文・写真 藤野浩章
英国による生麦事件の報復攻撃が寸前で回避され、江戸湾はようやく平静を取り戻した。
黒船来航から約10年。外国が直接江戸へ向けて侵略してくる危険性を目の当たりにした浦賀奉行所は危機感を強め、浦賀湾口、現在の西浦賀に新たに館浦(やかたうら)台場を築き始めた。今はマリーナになっている場所だ。三郎助はその指揮をとり、幕府屈指の軍事専門家として、大砲の設置などを進めていた。
そんな時、西からとんでもない知らせが次々に舞い込んで来た。
「攘夷決行日」とされていた文久3(1863)年5月10日、何と長州藩が下関海峡を通過するアメリカ商船「ペンブローク号」を突如として砲撃したというのだ。
一方、生麦事件で幕府からの賠償金を受け取った英国は、横浜に停泊していた旗艦「ユーライアラス」に大量の銀貨を積み込み、まだ賠償していない薩摩に圧力をかけるべく、計7隻の艦隊で鹿児島へ向かう。
そこで賠償金の支払いと犯人の処刑を要求して直接交渉を開始するが、応じない。しびれを切らした英艦隊が薩摩藩の汽船3隻を強奪したことから、当時世界最強の海軍と言われた英国と薩摩の間で、ついに戦争状態となる。
浦賀で台場づくりに励む三郎助は、これらの耳を疑うような知らせを、いったいどんな気持ちで聞いたのだろうか。
薩摩、長州、そしてイギリス。幕末の立役者はもう一つ、フランスの登場で出揃うことになる。そう、この時点ではまだ、幕府には十分勝算があったのだ。それを信じていたのは、他でもない小栗上野介だった。彼が、浦賀へやって来る。
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