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藤沢 社会

公開日:2025.06.13

戦後80年 語り継ぐ記憶
「製鋼所目掛け、空は真っ暗」
和田篤泰さん

  • 幼い頃の記憶を辿る和田さん

 辻堂で100年以上に渡り、葬送などに関わる事業を営んできた(株)和田の3代目・和田篤泰さん(84)。生粋の辻堂育ちの記憶に深く刻まれているのが、2度にわたる艦載機の来襲だ――。

 太平洋戦争が勃発する1年前の1940年に辻堂に生まれた和田さん。物心がついた頃は戦時下の真っ只中だった。「辻堂は厚木基地への通り道。度々、米軍の戦闘機が通過していた」。空襲警報が発令される度に防空壕に入り、幼かった妹は毎回、「トイレに行きたい」と泣き出したという。「恐怖心によるストレスが妹を苦しめていた。母が『おまえのために殺される』と、叱りつける姿を覚えている」

 当時、辻堂駅北口にあった関東特殊製鋼(現在のテラスモール湘南などを含めた一帯)は、国家総動員法により海軍の管理工場の指定がされていた。そして、住民が最も恐れていた事態が起こる。45年7月30日に艦載機315機、8月13日には200機が関東特殊製鋼目掛けて来襲した。「空が真っ黒になった。私たちは防空壕に潜り、ことなきを得た」。しかし、近所の住民が避難した防空壕に爆弾が直撃した。「一家全員が亡くなった。葬儀屋だった父は、バラバラになった家族の遺体を木箱に集めて本立寺(辻堂神台)で埋葬した」。住職によってつけられた戒名は「全身不散之霊」。痛ましい戦争で散り散りとなってしまった家族の霊が一つであるよう、思いが込められた。

「竹やりで戦車撃退せよ」

 日本の降伏を目的に米軍は千葉県・九十九里と神奈川県・湘南の2カ所を起点に、Uの字型に首都大本営を攻め落とす挟撃作戦を計画していた。「国はこの作戦に備え、住民たちに軍艦が海岸についたら、戦車がおりてくる。浜辺に穴を掘って竹やりで突いて撃退しろと通達していた」と父から聞かされたという。決行前に終戦を迎えたが、8月28日には200隻を超える大艦隊が相模湾に現れたことも記録されている。

地域襲う戦争の遺痕

 地域住民を襲ったのは、空襲や艦隊だけではない。終戦後も戦争の遺恨はさまざまなところで人々を苦しめた。「兄の同級生は拾った手榴弾でキャッチボールをして大けがした」。また、駅には身寄りをなくした浮浪児の兄弟もいたという。「葬儀代を食料でもらうことも多く、幸いうちは食べ物には恵まれていて、父は浮浪児の兄弟にも食べ物を分け与えていた」。それでも、戦後に生まれた2人の兄弟は栄養失調で亡くしている。「農家にヤギのミルクを買いに行ったけれど、助からなくてね」

 「忘れた頃に災難は繰り返される。幼い頃の記憶だが、今後の平和に役立てば」と思いを語る。

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