藤沢 社会
公開日:2026.08.14
【戦後81年】満州開拓団の地で見た惨劇 亀井野在住 小林麻須雄さん(85)
広大な満州の地にぽつんと残された幼き日の記憶が、今も胸の奥で揺れている。1939年、長野県富士見町の寒冷地で培われた逞しさを買われ、国策だった満州開拓団として街から約900人が海を渡った。小林麻須男さん(85)一家もいた。見渡す限りの荒野を耕し、田畑を拓き、水路を引く日々。小林さんはそこで生まれた。
銃口の恐怖
1945年の春、関東軍は本土防衛のために引き揚げた。現地には男手がほとんどおらず、残されたのは子どもや女性、年配者ばかりだった。
「朝鮮勝った、日本負けた」。終戦の8月15日、近所の子どもが叫んだ時の胸騒ぎ。銃を手にしたソ連兵が乱入してきた恐怖は、当時4歳の目に焼き付いた。
「『若い女はいないか』と家捜しに来て、母が『隠れろ』と私たちを二階に隠した。見つからないかハラハラして」。幸いにも毛布や時計などを差し出して事なきを得たが、銃口を突きつけられた感覚は生々しかった。
逃避行の果て
敗戦後、匪賊の襲来を逃れるため、集落ごとに分散して身を寄せ合う過酷な生活が始まった。現地で徴集されていた父は、日本へ返すと偽られて乗せられた列車が南ではなく北へ向かうのに気づき、命がけで列車から飛び降りて家族のもとへ戻った。「あのまま連れて行かれていたら、シベリアへ抑留されていた」
だが日本への道のりは困難を極めた。食べ物は底を突き、病が流行。「乳幼児は生きて帰れないだろう」と安楽死させられ、井戸へ葬られる悲劇もあった。「私は年齢的にちょうど境目だった。もう少し小さかったら殺されていた」
開拓団のうち、帰国を果たせたのは約600人で、現地で徴集された人や移動の途中で命を落とす人もいた。列車に揺られ、線路が途切れれば雨風に晒されながら峠を越え、野宿を重ねた。「難民そのものの姿だった」
46年10月、佐世保などの港を経て、一家は無事に長野へと戻ることができた。元の家や田畑が残されていたことが、せめてもの救いだった。
弱者が犠牲に
高校卒業後、藤沢に工場を構える建設機械メーカーに就職した。定年まで勤め上げた後、かつての悲惨な体験を胸に、平和運動や環境運動に身を投じてきた。
「ウクライナやパレスチナで逃げ惑う人がいる。当時の自分のようで他人事とは思えない。大義名分がどうあれ、戦争で被害を受けるのは、武器も持たない弱者。だからこそ、戦争を起こしてはならない」
生死の境を潜り抜けてきた眼差しは、繰り返される惨劇を案じ、平和の尊さを訴え続けている。
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