鎌倉と源氏物語 〈第5回〉 国母の先輩上東門院と松下禅尼
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
鎌倉幕府の京都における出先機関である六波羅探題があったのは、平家一門の邸宅が建っていた現在の鴨川東岸の五条から七条にかけて広がるエリア。
1183年に平家が都落ちする際、邸宅に火を放って去ったため一帯は灰燼と化しましたが、六波羅蜜寺は唯一焼けずに残って今も往時の姿を伝えています(写真)。
後鳥羽院方朝廷と鎌倉幕府が戦い、鎌倉方が勝った承久の乱(1221年)の後、六波羅探題が置かれたのでした。
第二代北方に就任した北条時氏の子の経時・時頼たち幼い兄弟が、六波羅蜜寺境内を遊びまわる元気な姿が目に浮かびます。
兄弟の母である松下禅尼が上東門院を敬愛して止まなかったというエピソードが、鎌倉時代の僧・無住が書いた『雑談集』に残されています。
上東門院は、『源氏物語』の作者・紫式部が仕えた藤原道長の娘で、一条天皇の中宮彰子。後一条・後朱雀という二人の天皇の母になった方です。松下禅尼は、藤原定家との交流で『源氏物語』を介して上東門院を知ったのでしょう。
天皇の生母を「国母」と呼びます。ゆくゆくは執権となる男子・経時を産んだばかりの松下禅尼は、国母的責任を感じているところに自分と似た立場の女性を見出し、共感していたのでしょう。その想いの強さは、建長寺の願文から読み取ることができるのです。
織田百合子
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