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横須賀・三浦 コラム

公開日:2024.09.13

OGURIをあるく
〜小栗上野介をめぐる旅〜第16回 駿河台編【7】文・写真 藤野浩章

  • 旧小栗邸に近い聖橋(ひじりばし)

「上野介(こうずけのすけ)とは、縁起が悪うございますわね」(第二章)



 忠順(ただまさ)が任じられたのは「御軍制御用取調(とりしらべ)」。今でいえば首相の安全保障担当補佐官といったところか。17世紀からほぼ変わっていない軍の改革を任されたのである。

 同時に新たな官位が与えられたが、妻・道子の冒頭の言葉は、赤穂(あこう)浪士討ち入り事件を想起したもの。忠順は「首を賭ける覚悟でやれとの思召(おぼしめ)しであろうな」と一笑に付す場面があるが、結末を思い出させるこのセリフを使うとは、作者の大島は何とも意地が悪い。

 この改革で、忠順は念願だった強力な海軍の創設を提案する。加えて、軍艦の半分を国産化するために造船所を建設すべし、と初めて訴えた。

 ところが、再びお役入りしてからわずか1カ月。今度は勘定奉行勝手方に転任する。壮大な計画を実現するためにはまず金の工面をせよ、というわけだ。しかしこれは「入(い)ると出(い)ずるを制す」事を心掛けてきた忠順の得意分野だった。

 それにしても、次から次へと役が舞い込む状況は、ひとえに幕府の圧倒的な人材不足が成せる技に他ならない。薩摩、長州が暗躍し、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が盛り上がる中、幕府幹部は小手先の対応しか取ることができない。幕府崩壊まで約6年、すでに徳川政権は機能不全になりつつあったのだ。そんな中にあって、外交・財政・軍事に精通した小栗のマルチな才能に、幕府は頼らざるを得なかったのだろう。

 「又一(またいち)」ぶりを発揮することになる多様な才能を、彼はどう身につけたのだろうか。そのきっかけとなったアメリカでの体験を探ってみる。

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