OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第18回 アメリカ編【2】文・写真 藤野浩章
1858年に結ばれた日米修好通商条約。実質的に鎖国政策が終了となるこの条約が結ばれるまでには、数々の困難があった。
なかでも、朝廷の反発は想像以上に激しかった。何としてもアメリカとの戦争を避けたい大老・井伊直弼(いいなおすけ)は天皇の裁可(勅許(ちょっきょ))を得ることなく調印する、という大胆な手段を選ぶが、これが後に大混乱をもたらし、結果として幕府は崩壊へと向かうことになる。
そんな中、批准(ひじゅん)書の交換のために選ばれた3人は、正使に外国奉行・新見正興(しんみまさおき)、副使に村垣範正(むらがきのりまさ)、そして「目付(めつけ)」として任命されたのが小栗忠順(ただまさ)。実は当初、使節は別の3名だったが、政治の混乱で全員が失脚し、いわば"予備員"が選ばれた。
新見は上品な美男子だったという。東善寺・村上泰賢(たいけん)さんによれば「かつての遣隋(けんずい)使に選ばれた小野妹子(おののいもこ)以来、日本の使節はまず風采(ふうさい)で選ばれる傾向があった」というから面白い。同じく村垣は「文筆にたけていて、保守派で年齢や経験からも、うかつにアメリカ人に言いくるめられることはない」、そして小栗はというと「直言する態度や切れ者の才能が井伊大老の目にとまり」抜擢されたという。イケメンスターと"ノーと言える"脇役という万全の布陣で、アメリカと向き合うことになったというわけだ。
総勢77名の使節一行は、迎えに来た駆逐艦ポウハタン号に乗り込み、1860年1月18日、川崎沖を出発する。
この時、護衛目的で浦賀から出港したのが咸臨(かんりん)丸。オランダ製で約三百トンのこの船に乗っていた日本人は96名。その指揮役が、勝海舟(かつかいしゅう)だった。
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