OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜特別編 小栗が見た神奈川宿文・写真 藤野浩章
ついに横浜が開港することになった1858年。幕府は早くも翌年に横浜港を開く一方、東海道の神奈川宿(しゅく)には欧米諸国がいくつかの寺院に分かれて領事館などを置いた。今回は、当時小栗上野介が実際に見たかもしれない宿場を歩いた。
スタートは、京急線神奈川駅。日本橋から数えて東海道3番目の宿場だ。第四章では小栗が盟友の栗本鋤雲(じょうん)(瀬兵衛(せへえ))を訪ねる場面が出てくるが、駿河台の自宅を朝6時に出て、神奈川宿に昼前に到着とある。彼の華麗な手綱(たづな)さばきは有名で、とても目立つ登場だったろう。
本来、各国はここに開港場を設けることを要求していた。しかし東海道の重要な宿場町に外国人が住むことを嫌った幕府は「横浜も神奈川の一部」として、少し離れた寒村である横浜に港をつくった。首都防衛と貿易の利便性を考えると、貿易港横浜は絶妙な場所に位置していたのだ。
さて、神奈川駅前の青木橋を渡ると、前方の高台にあるのが本覚寺(ほんがくじ)。ここはアメリカ領事館だった。神奈川奉行は別の場所を指定していたが、総領事ハリスは港を見渡せる高台にこだわり、ここを接収して使用した。しかもあろうことか山門は白いペンキで塗られ、本尊は板で囲われるなどやりたい放題。もちろん賃貸料は発生したが、米からなかなか支払われず迷惑したという記録があるという。奇跡的に山門が当時のまま残っているが、ここにわずかに残るペンキが、皮肉なことに日本初の西洋式塗装のあとだという。ちなみに生麦事件の際に負傷したイギリス人2名が逃げ込んだのもこの寺だ。
南に戻って、駅近くの甚行寺(じんぎょうじ)はフランス公使館。「寺の書院を改装した簡素な公使室」で小栗とフランス公使ロッシュが面会する場面が本書に出てくる。そして少し歩いた滝の川沿いの慶運寺(けいうんじ)はフランス領事館だ。
さらに川を南に下った浄瀧寺(じょうりゅうじ)はイギリス領事館。ここも本堂などにペンキが塗られてしまったらしい。わざわざ記録に残していることからも、寺院にとっては相当な屈辱だったに違いない。米英と違い、仏の施設には改装はあるもののペンキで塗り潰す、などの記載が見当たらない。もしかして小栗が横須賀製鉄所のパートナーを仏にしたのは、相手の文化を理解する国民性があるのでは?などと考えてしまうが気のせいだろうか。
あっという間に国際的な場所となった神奈川宿だが、幕府は警戒も怠らなかった。首都高をくぐり10分ほど南へ行くと、住宅地の一角に突然、古い石垣が露出していた。ここが神奈川台場跡。その遺構の一部が史跡として残されているのだ。現在はマンション建設のため埋め立てが進んでいて、数年後にはだいぶ景色が変わることだろう。
この台場は、五稜郭(ごりょうかく)のように星形をしていて約八千坪の広さ。船だまりがある珍しい形で、設計は勝海舟(かつかいしゅう)だ。伊予松山藩が築城し、1860年に完成している。ここが他の台場と違うのは、その役割。首都防衛はもちろん、対岸は外国船が多数往来する横浜港。そのため、歓迎や君主の誕生日などに祝砲を放つ役割も担っていたのだという。
他にも、坂本龍馬の妻おりょうが仲居をしていたという割烹(かっぽう)「田中家」が現存するなど、神奈川宿は見どころが多い。
小栗が馬で駆け抜け、外国人が往来していた全長4キロほどの道。おすすめの散歩コースだ。
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