横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.04.10
三郎助を追う ~もうひとりのラストサムライ~ 第39回 文・写真 藤野浩章
「どちらが早く長崎に着くか、船競(くら)べするのだよ。退屈しのぎにもってこいと思うがな」
◇
後に勝海舟として歴史に名を残すことになる勝麟太郎(りんたろう)は、どうやって道を開いたのだろうか。
紆余曲折を経て幕臣となった家に生まれた勝は、困窮を極めながらも他の家と同じようにさまざまな学びを積み重ねる。特に剣術は、従兄弟に直心(じきしん)影流(かげりゅう)の剣聖と呼ばれた男谷(おたに)信友(のぶとも)がいて、その紹介で男谷の弟子である島田虎之助が開いた道場に入門、免許皆伝となる。島田は後に男谷と並んで"幕末の三剣士"と呼ばれる人物だ。
一方、学問では蘭学を極め「西洋兵学の道に進んで三十歳前には自ら蘭学塾を開いて諸藩からの鉄砲や野戦砲の鋳造を請け負うまでになった」という。あとは出世のきっかけが必要だが、それは外国からやって来た。ペリー来航だ。
老中の阿部正弘は、日本が開国すべきかどうかの意見を広く集めたが、勝は西洋式兵学校を設けるべきなどとした海防意見書を提出。それが海防掛(かかり)だった大久保忠寛(ただひろ)の目にとまったのだ。いわば八百人以上参加のオーディションで審査員の目にかなったという感じか。海防より彼は広く兵学が専門だが、それも運命だろう。ついに役入りのチャンスを掴み、頭角を現していく。三郎助が現場の実務家だったのに対し、勝は現実的な理論家寄りだろうから、そこに微妙なズレがあったのは注目しておきたい。
さて、ついに合流した面々は長崎に向かう。そこで2船を競争させよう、という場面が冒頭の勝のセリフだ。そしてこの航海は、まれに見る過酷なものとなった。
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