「打率3割、30盗塁」。2014年10月に行われたプロ野球ドラフト会議で、中日ドラゴンズから3位指名を受けた後、友永翔太選手(23・日本通運(株))が掲げた目標だ。秦野コメッツで野球を始めた少年は、安打と俊足が持ち味の選手に成長。今年、背番号「1」を背負い、プロの世界へ足を踏み入れる。
友永選手は右投・左打の外野手。身長は170cmで野球選手としては小柄だが、勝負強い打撃と50m5・8秒の俊足が持ち味で、守備範囲の広さも評価される。
社会人野球2年目の昨年は、4割1分8厘の高打率をマーク。社会人野球ベストナインに選出され、中日ドラゴンズから声がかかった。同球団が新人に背番号「1」を与えるのは福留孝介選手以来だという。
野球を始めたのは、本町小3年生の時。「周りの子がやっているから」と秦野コメッツに入団した。友達と外で遊ぶのが大好きな少年にとって、はじめは野球も楽しい遊びの1つだった。
しかし、試合で初めて「負ける悔しさ」を経験し、練習への姿勢が変わった。「チーム1のホームランバッターになる」とバットを振り続け、4年生で言葉通りチームのクリーンアップとして活躍するようになった。
コメッツ卒団時の作文に書いた夢は「プロ野球選手になってセンターを守りたい」。それを叶えた今でも満足する試合はないという。「もっと良い結果があるのでは、と追求できることが野球の魅力の1つ」と語る。
中学時代は秦野リトルシニアで投手や中堅手、遊撃手等チームの要として活躍。その後、強豪校の東海大相模高校に進学し、精鋭が集まる中、寝る間も惜しんで練習を続けた。「厳しい練習を乗り越えたから今の自分がある」と話す。
亡き創始者の夢叶える
12月20日に商工会議所で開かれた祝賀会には、秦野コメッツや秦野リトルシニアの少年ら約70人とその保護者などが集まった。友永選手は子どもたちを前に「周りにすごい人がたくさんいても圧倒されたらダメ。『負けるものか』とひたむきに努力してもらいたい」と語りかけた。
2014年9月に他界した秦野コメッツの創始者・榎本圭治さんは生前、「コメッツからプロ野球選手を輩出すること」を目標にしていたという。同チーム出身者初のプロ野球選手となった友永選手へ、関係者らは感謝の言葉を贈った。
講演後、友永選手は「野球に身長は関係ないですよ。子どもたちが夢を持てるような選手になれるよう頑張らないと」と爽やかに言い切った。その笑顔には、心の強さが表れていた。
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