八王子 コラム
公開日:2025.10.09
―連載小説・松姫 夕映えの記―
第1回 作者/前野 博
序 章
天正十八年(一五九〇)六月、鍛冶屋栄吉の女房お梅と娘おキミが八王子城城下の横山口木戸前に立っていた。北条氏本城がある小田原へ通じるおだわら道は、この木戸から横山宿に入り城下の道を横切ることになる。八王子城の中宿大手門から発した城下の道は八日宿、横山宿、八幡宿を通り抜け、今は空となった滝山城に通じていた。その城下の中間にある横山宿を横切りおだわら道は南へと向かう。
今日は久しぶりに雨が上がり青空が広がっていた。野山の緑は一段と濃く、草いきれが生暖かく漂っていた。二人がそこに立ってから四半刻になるだろうか、お梅が何度となくおキミの汗を拭いていた。
「おーい、まだ待っているのか? 遅いな!」
木戸番の兵士の一人が一時持ち場を離れ、また戻って来た。兵士といっても八日宿で一膳飯屋をやっていた男でお梅も良く知っていた。
北条征伐のために豊臣秀吉が京都を出発したのが三月初め、四月に小田原に到着し二十万の大軍で小田原城を囲んでいた。北条氏は城下の町と農村を城の中に取り込んだ総構えの巨大な城郭を造り、豊臣軍に対し籠城戦で全面対決していた。一方、豊臣軍の別動隊北国軍が碓氷峠を越え関東平野に侵攻して来ていた。北国軍は上州の北条の支城を攻略し終え、武蔵国に侵入、今現在半分以上の支城を制圧していた。北国軍は関東の西部を攻め立て小田原まで進撃して行く。関東東部は小田原包囲軍から徳川軍等の別動隊が出撃し制圧を進めていた。
八王子城城主・北条氏照は精鋭部隊を引き連れ、北条の本城小田原城を守るために出陣していて八王子城にはいない。八王子城を守るのは、士気の高い家臣達と徴用された農民、城下の町民合わせた三千人であった。農民、町民の家族は敵の襲来に備えて城内に避難する者も多くなっていた。
〈続〉
◇このコーナーでは、揺籃社(追分町)から出版された前野博著「松姫 夕映えの記」を不定期連載しています。
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