横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.10.16
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第65回 文・写真 藤野浩章
薩摩と長州は"武力で幕府を叩き潰す"方針のもと、朝廷から討幕の密勅を出させるのに躍起となっていたが、そこに土佐藩が、戦争を避けて政権を朝廷に返上するという案を提案。慶喜が受け入れるはずもなく、むしろ討幕の口実が得られると、このプランに薩長も乗ったのだ。英公使パークスも、表向きは中立を装いながらもこれを支援。グラバーによる大量の武器密売を進める。
ところが慶応3(1867)年10月4日、慶喜はその裏をかくように政権を返上する。そこには、仏公使ロッシュも後押しした"徳川家を筆頭とする新しい政府"の構想があったとされる。
とにもかくにも、この「大政奉還」の報は、幕府内に大きな動揺をもたらした。政権を担えるのは徳川以外にないと踏んだ慶喜の大博打(ばくち)なのか、それとも薩長の罠なのか。この頃の情報伝播力は素早く、各地で憶測が乱れ飛ぶことになった。それは遠い世界の話ではなく、当たり前と思っていた秩序が揺らぎ、目の前に物価の急騰、そして失業、さらには内戦の危機など、庶民にも「暮らしの崩壊」が現実味を帯びてきたことを意味していた。
この頃全国的に流行した「ええじゃないか」は、そんな不安と無関係ではないだろう。奉行所のお膝元である浦賀でさえ、10月に初めて「お札」が降り、やがて叶(かのう)神社の祭礼を凌ぐほどの狂乱ぶりなっていったという。
そして12月9日。京都御所が包囲される中、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視(ともみ)らによるクーデターが起こる。「王政復古の大号令」により江戸幕府が廃止され、深夜の「小御所(こごしょ)会議」で、慶喜不在のまま、徳川家の事実上の解体が決まる。
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