麻生区 コラム
公開日:2017.05.12
柿生郷土史料館タイアップ企画
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第101回 シリーズ「麻生の歴史を探る」徳川入府(1)〜士農分離 前編
北条氏が小田原を開城し滅亡したのが天正十八年(1590)七月。翌八月には徳川家康は関八州の領主として、三河以来の譜代家臣に護られ中原街道を小杉の渡しから江戸城に入っています。この北条傘下の江戸城の落城は五日だったと言われ、それから僅か3ヶ月、秀吉、家康間の予定の行動で、俗に「御打入り」と呼びますが、道中小机城を主郭とする都筑、橘樹の各城は遮る者とてなく(在地土豪と小机衆の対立があった)、難なく江戸城に入城しています。
北条氏と徳川氏の領国支配の違いは、譜代家臣の違いで、徳川氏の場合は三河以来の家臣団を持ち、一方俄大名の北条氏は臣従する家臣が少なかったことにあります。北条氏に属したこの地方の武士たちは、「とりあえず所領が安堵されれば」と従属していたもので、それを知る家康は小机城をはじめ各城を廃城とし、代わって三河以来の股肱の臣を支配者に任命、そして後に徳川恩顧の武士に知行地を与え村の領主とし、徳川300年の基礎を作っていきます。
家康の江戸城入府は天正十八年、天下統一を成し遂げた秀吉は「刀狩り令」を全国に公布、続いて兵農分離の施策を進めます。慶長三年(1598)秀吉が没し、慶長八年家康は江戸幕府を開きますが、士農工商の身分施策は更に進み、全国の土地は天領(幕府領)、寺社領そして、大名・旗本領に分けられ、それぞれが徳川家臣の知行地として収攬されていきます。
【次回へ続く】
文:小島一也(遺稿)
参考文献:「新編武蔵風土記稿」「川崎市史」「わが町 大蔵」「中里村郷土史」
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