柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第105回 シリーズ「麻生の歴史を探る」徳川入府(3)〜検地(お縄内水帳) 前編
関東に領地を得た徳川家康は直ちに領内の検地を始めます。検地とは今でいう国土調査で、通常検地の方法は、1間が6尺1寸〜5寸(年代によって異なる)とする検地竿を使い、縄を用いて地面を測量するもので、田・畑はその生産高によって、上・中・下田(畑)の等級がつけられ年貢高の基準になり、屋敷、湖沼も測量されますが、山地は対象外であったようです。この測量台帳を「検地帳」とか「お縄打水帳」とか呼びますが、岡上の梶家には川崎市内で最も古い、天正十九年十月九日〜十四日(1591)の検地帳が保存されています。
川崎市史によるとこの岡上村の検地は、代官伊奈忠治(領主ではない)と配下役人2名、それに村内の有力農民森彦三を筆取り(記帳責任者)に実施したもので、「武州都筑郡小机之内岡上村御縄打水帳」と記されたものが6帳、その他に「屋敷御縄打水帳」が1帳、合計7帳で、村の耕地面積は、田15町6反5畝23歩、畑21町3反2畝26歩、屋敷7反7畝19歩とあり、合計37町7反6畝8歩とされています。
当時、このお縄打水帳には番地はありません。せき下・河内・藤乃木・窪田など30余の小字が付されて、一筆ごと、地積、田畑の等級、耕作者名が記され、さらに耕作者名には「主作」「大すミ作」が付された56名(戸数ではない)の記載があります。これは分付主(地主)が所有地を自作地としているか、分付地(貸地、小作地とは違う)としているかをあらわしたものです。分付主が分付地にしている割合を見ると、田畑の合計365筆中、157筆が分付地、面積で調べると、分付主15名で田畑の約40%に当る15町3反歩余を分付地としています。県史によるとこの最高所有者は「織部」と称する者ですが、岡上の住民ではなかったようです。また、屋敷の所有は又兵衛(280坪)、左京亮、又右衛門など13名の名前がありますが、彼らが岡上村内の土豪百姓と思われます。
【次回後編へ続く】
参考資料:「新編武蔵風土記稿」「川崎市史」「江戸近郊農村と地方巧者(村上直)」
文:小島一也(遺稿)
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