東京電力・福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町。事故から5年が経った今もなお、町民の約96%が暮らしていた地域が、立ち入りが原則禁止される「帰還困難区域」のままだ。大熊町で生まれ育った管浪秀治さん(入谷在住/72)の実家も同区域内にあり、帰郷はままならない。「原発は駄目」――。原発事故によって故郷を失った1人として、その想いを強くしている。
故郷が帰還困難区域に
「人っ子一人いない、無音の世界。動物の息遣いも感じず、残されたフンがわずかに生物の名残を感じさせるだけ」――。管浪さんの実家は、大熊町を南北に抜ける国道6号線近くに位置する。海岸線から3Kmほど離れているため津波被害はまぬがれたが、原発事故の影響は色濃く残った。
発災後初めて実家を訪れたのは、2011年7月。防護服とマスクを身に付け、首には放射線測定器をぶら下げた。「いよいよだな」。緊張に身がこわばったのを、覚えているという。正面玄関へ続く道は、放射能が堆積した草が生えているため通行できず、裏口から入ったそう。印象的だったのが、カラスやスズメが一羽も飛んでいなかったこと。「座間ではたくさん見かけるのに。被災地から逃げてしまったのか。驚いたよ」と振り返る。
その後も年一度のペースで訪問し、2014年には妻と2人で、実家近くにある両親の墓へ。墓周辺の草の除染が終了し、数年ぶりの墓参りが実現した。
震災で認識改め
管浪さんは9人兄弟。中学と高校の一時期をのぞき大熊町で過ごした。当時は、原発の影も形も無かった頃。高校時代、戦時中の飛行場跡地で測量のアルバイトをした。測量の目的を知らされていなかったが、そこは後に原発が建設された場所だったという。
高校卒業後、就職に伴い上京した。仕事に追われる日々が続き、1971年に原発が開業した時も「そういうのが出来たんだ」と頭の隅に留めた程度。ただ、久しぶりに帰省すると、新しくなった公共施設や道路の存在が目に止まった。
遠い存在だった原発は震災を契機に、その輪郭がグッと濃くなった。大熊町で暮らしていた兄などは避難生活を余儀なくされ、自身も含め故郷へ自由に帰ることも出来なくなった。
「これだけの被害が出て、何故再稼働を進めるのか」。事故の怖さは、帰還困難区域になっている場所を訪れ、「不気味」と表現する世界を歩いた人にしか分からないという。
「原発は駄目」。声高に叫ぶわけではないが、心に秘めている。
たい焼きで元気届ける
座間市民に防災・減災意識を啓発する「ざま災害ボランティアネットワーク」に所属している。同団体が発災後から取り組んでいるのが、「たい焼きボランティア」。調理器具と材料を被災地に持ち込み、餡やクリームいっぱいのたい焼きを提供して、被災者に少しでも元気になってもらおうという取り組みだ。
支援先の1つが、福島県の会津若松市といわき市。両市とも、大熊町からの避難者が住む仮設住宅が置かれている。昨秋にも両市を訪れたそうで、延べの訪問回数は15回に上るという。「まだまだ仮設住宅で暮らしている人も多い。これから先も、できる限り活動を続けていきたい」と語る管浪さん。故郷を同じくする人々のために、元気を届けていく。
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