藤沢 社会
公開日:2025.06.06
戦後80年 語り継ぐ記憶
満洲 略奪と叫び声の記憶
ラジオDJ 在津紀元さん
毎週日曜午後6時からレディオ湘南で放送される「ざいつきげんの音楽鍋」でパーソナリティを務め、明るいトークと選曲でリスナーを魅了するラジオDJ・在津紀元さん(85)。その生まれは旧満洲国(現・中華人民共和国東北部)だ。終戦直後にソ連(現・ロシア)から侵攻を受け、わずか5歳にして生活は一変。死と隣り合わせの日々が始まった――。
在津さんは1940年、旧満洲国・撫順市に生まれた。同市は炭鉱の町として知られ、父は旧南満洲鉄道株式会社(満鉄)の鉱山技術者として勤務。家族は同社の社宅で暮らしていた。
「満鉄の社宅では優雅な暮らしをしている人が多かった」。だが1945年8月9日、にソ連軍が満洲に侵攻。撫順市に入ると、社宅を略奪の標的とした。「終戦後も1カ月くらいは略奪が続いた」と在津さん。混乱の中で人々は命と身の安全を守ろうとした。「女性は髪を剃り、男装して屋根裏へ避難する。母も丸坊主になっていた」
ソ連兵4人がマンドリン銃を手に、住居内に侵入してくる。「兵士たちは片言で『ゼニナイ、カネナイ』と言っていた」。幼い日の在津さんの目に焼き付いたのは、銃口と4人が大量に身に付けていた腕時計。「うちに来るまでに何軒も襲った証だと思う」。息を潜めながら、略奪を見つめることしかできなかったが「恐怖感はなかった」という。命を守るため、大人たちの「金品を全て捕らせて、早く帰ってもらう」という考えに黙って従った。
引き揚げまでの日々
占領下の撫順市での日々が始まった。満鉄は閉鎖されたが、父の仕事仲間の中国人が差し入れをくれるなど、生活を助けてくれた。朝、野営する中国人兵士のテントに子どもたちが訪れ、鍋に残った焦げたご飯を貰ったりした。「今でもおこげが好き。その影響かもしれない」と話す。
在津さんが子ども心に恐怖を抱いたのは、夜に壁の向こうから聞こえる、襲われる女性の泣き叫ぶ声だった。「見えない恐怖というものがあった」。大人によく言われたのが、中国人による子どもの拉致の噂。「大きなマントを着た中国人に気をつけろと言われた」。実際に拉致被害があったかはわからないが、当時の混沌と不安な日々を象徴していた。
翌46年10月、日本に帰国できることになり、撫順駅から屋根のない貨物線に乗り、300Km先の送還拠点・葫芦島の港に到着。アメリカ軍の軍用貨物船に乗った。「積んであった戦車で遊んだ」と振り返る。
軍から野営用の毛布と乾パンが支給され、他の家庭と境界がない空間で雑魚寝した。船内ではジフテリアの流行や、甲板から人が落ちたという話をよく聞いた。
京都府舞鶴港に到着し、祖国の地を踏んだ。その後は現在まで満洲を訪れていない。「自分が生まれた病院も残っているらしい。行ってみたいとはずっと考えている」とこぼす。
「イマジン」への思い
報道などで暮らしていた街が戦場となり逃げ惑う外国の子どもたちの映像を見ると、過去の自分と重ね合わせる。「戦争で一番悲惨な思いをするのは子ども」。反戦への意識を強くする。
毎年8月には自身の体験を音楽とともに語る。また、ロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルのガザ地区空爆が始まった直後、ジョン・レノンの『イマジン』を流し、マイクを通じリスナーにこう語りかけた。
「優しい心を持てば戦争がなくなるという気持ちを、今夜は『イマジン』に託しましょう」
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