70年前のきょう5月29日、米軍による無差別爆撃が横浜市中心地域に対して行われ、およそ8千〜1万人が亡くなった。市内東原在住の井上精司さん(76)は、暮らしていた神奈川区で「横浜大空襲」に遭い、辛くも生き延びた。「一生忘れることができない」という5月29日――。戦争の記憶と平和への想いを取材した。
第2回 忘れざる、5月29日
井上さんは当時、国民学校に入学したての6歳。実家は、攻撃目標の1つだった東神奈川駅から徒歩5分ほどの場所にあり、両親と2歳の弟、鶴見区から避難していた叔母と従兄、6人で生活していた。兄と姉は集団疎開していた。
29日の早朝、ラジオから米の爆撃機が関東南部から接近しているという情報が流れた。「いつもと違う不安と緊張感を覚えました」。空襲を告げるサイレンが鳴ったのは、小学校に向かう途中だった。
急いで家に戻ると、裏で大きな炸裂音が響いた。隣家に爆弾が命中した音だった。「逃げろ!」。従兄と一緒に、火の海から逃げるように海沿いへ避難した。その途中で見た光景は、今も忘れられない。道から道へと火が飛び移り、川には焼死体が積み重なっていた。火災がおさまった後は、見渡す限りの焼野原。コンクリート製の小学校や保健所が、ぽつぽつと点在するのみだった。
離れ離れになった家族は全員無事に再会できたが、隣人など親しい人々が多く亡くなった。
避難先の農家で迎えた終戦。「夜間空襲から逃れるために電気を消さなくても良い」、「ぐっすり眠ることができる」。安堵の想いが胸を占めた。
悲惨な体験、後世へ
「戦争の悲惨さは、体験した人にしか分かりません。戦後70年が経ち、記憶を語れる人が少なくなっています」――。二度と悲劇を繰り返さないため、自分の経験や想いを後世に伝えていきたいという。
勤務していた会社の組織が「私の戦争体験記―あの日、あの頃―」と題した冊子を製作した時は、横浜大空襲について寄稿した。所属する「神奈川健康生きがいづくりアドバイザー協議会」の県央定例会では、仲間たちに平和の尊さを訴えた。座間市内では「語り部」としての活動はまだ無いものの、機会があれば取り組みたいと考えているそう。
「私一人の力は、たいしたことないかもしれないけれど、声の届く範囲で平和の尊さを伝えていければ」と話している。
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