「親父がどのような苦労をしたのか。子どもとして知りたい」。南栗原に住む佐野秀雄さん(72)は、多くの戦死者を出した「インパール作戦」に従軍した父・金作さん(享年96)の体験について、1年前ほどから調べている。その内容を知るほど、犠牲者の無念に胸が痛む。「戦争を二度としては駄目」――。亡き父の口癖だったという言葉の意味を改めて噛みしめている。
最終回 亡き父の戦争体験に迫る
金作さんが出征したのは1943年。当時まだ29歳で、長男の秀雄さんが生まれて間もない頃だった。サイゴンやバンコクを経由してビルマ(現ミャンマー)に入り、インドにおけるイギリスの最前線基地・インパールを攻略する作戦に加わった。
補給線が十分に確保されず、糧食・弾薬が乏しいなかでの戦闘は困難を極めた。被害が拡大しながらも撤退命令は下りず、戦闘や飢餓による戦死者は増える一方だった。行軍途中の道路は、後に「骸骨(がいこつ)街道」と呼ばれるほど遺体が積み重なり、前線では兵士が鉄砲で自分の喉を撃って自決した。多くの兵士が非業の死を遂げるなかで、金作さんは生き延び、1946年6月に復員。日本に残してきた家族と再会を果たした。
「従軍記」もとに
秀雄さんは、シニア学級・あすなろ大学の学習の一環で、これらの出来事を調べ始めた。主な資料は、金作さんが80代半ばに書き上げた「私の従軍記」。「貴重な経験を文章にしては」という秀雄さんの提案を受けて執筆されたもので、徴兵から復員まで苛烈な体験の数々が生々しく描かれている。従軍記に加え、本やインターネット、父宛ての戦友からの手紙などを調べた。作戦について知れば知るほど、その「滅茶苦茶さ」に驚いた。「死ぬ必要が無い人が、大勢犠牲になった」――。調べた内容は、3月の同大学発表会で来場者に紹介した。
調査は道半ば
約1年にわたり調査を続けたが、感覚としては「表面を触っただけ」。作戦の実態を理解し、金作さんの苦労に迫るには、さらに数年を要すると感じている。「もしかしたら、どれだけ調べても分からない事かもしれない」という考えも頭をよぎる。それでも、今後もコツコツと調べていく。「いつか子や孫に、親父の体験を伝えられれば」。そんな想いも抱いている。
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