「頭にこびりついて離れない」――。1945年3月9日と10日、罹災者100万人超と言われる東京大空襲から生き延びた中村新二郎さん(85/相武台在住)は、当時をそう振り返る。定年退職後には、趣味という書き物の一環として戦争体験記をまとめ上げたほか、庶民の体験を綴った書籍「孫たちへの証言・第23集」(2010年/(株)新風書房)に大空襲の事実を投稿した。戦後70年が経ち、生き証人が少なくなる中、「書く」ことで何か残せないか模索している。
書く事で、悲惨さ浮き彫りに
実家は東京の本郷にあった(現在の文京区)。近くには東京帝国大学や湯島天神が位置し、勉学の香り豊かな地域だったという。しかし、ここ一帯は米軍・爆撃機の夜間・焼夷弾攻撃によって、45年3月9日夜から10日にかけて焼け野原になった。
「線香花火の火玉のような焼夷弾が、夜空に線を引くように落ちていった」「火災の激しさに、防火用水に溜まっていた水が全て蒸発していた」「救護所に向かう途中で何かに躓いた。黒くてよく分からないが焼死体だった」――。70年前の出来事だが、当時の状況は脳裏に鮮明に焼き付いているそうだ。
戦争の記憶は、東京大空襲だけではない。太平洋戦争の開戦を告げた1941年12月8日のラジオ放送、初めて空襲を経験した1942年4月18日。今なお残るそれらの記憶は、心に刻みこまれた傷跡の深さの証だという。
「体験者にしか分からない」
表紙合わせて21頁の「戦争体験記」は2007年に作った。「戦争を語れる世代が少なくなっている。大空襲の経験をまとめてみようか」。そんな想いだった。執筆に当たっては、頭のなかの記憶を掘り起こした。今でもハッキリ思いだせるという街の様子を地図に起こした。4〜5日で出来上がった冊子は、孫や姪など親類に配ったそう。「大げさなものじゃない」と照れた様に話す。
体験者が亡くなり、当時の出来事が人から人へと伝播する過程で、真実とは異なるかたちに変容することを危惧している。「私たちにしか分からないことがある」。その想いは切実だ。
今後は「食」をテーマに書けないか考えている。戦中・戦後の食糧困難な時期に、どのような物を食べていたのか。身近な食生活を比較させることで、戦争の悲惨さを現代に伝えられれば。そう想い描いている。
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