常若遊人(とこわかゆうじん)〈夏〉 源家最後の将軍 エッセイスト・加藤正孝(鶴巻)
"アア、天ハ何ノタメに我ヲ生ゼンヤ"〈上田秋成「自像箱記」〉
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秦野市内には鎌倉時代ゆかりの地が8カ所ある。曽我兄弟が仇討ちを請願した柳川の不動院、和田義盛の菩提を弔う鶴巻の西光寺、頼朝の妻政子が安産祈願のため一晩に3回まわった(・・・・)という三廻部(みくるべ)の村...その中で三代将軍実朝関係の事跡が、暗殺された実朝の首を武士たちが運ぶ途中の夜中、ニワトリが8回鳴き目的地に急がせたという下大槻の八声橋(やこえばし)など数カ所ある▼実朝公御首塚がある東田原のふるさと公園では、実朝の誕生日8月9日・命日の1月27日の年2回度尺八献楽供養会(会長星秦山氏)や実朝まつりが行われている。公園から10分、実朝の法号に因む金剛寺(ここには実朝の木造坐像が安置)に辿り着く▼当地一帯は、上代に渡来人秦氏が開拓したとか。平安時代、平将門を打ち取ったり大百足(おおむかで)を退治した藤原秀郷(ひでさと)(異名俵藤太)の里という伝説も。
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承久元年正月27日の夜、実朝の右大臣拝賀の日鶴岡八幡宮の社頭で将軍実朝(28)、(謀殺された)兄の二代将軍頼家の息子公暁(くぎょう)(20)に親の仇として暗殺された。この惨劇には多くの疑問が。オメデタイ拝賀の式がなぜ夜に行われたのか、太刀持ちで参列していた北条義時が急に気分が悪くなり文章(もんじょう)博士源仲章に交代していてこの仲章も同時に殺されている。この事件の翌日、手回しよく実朝の葬式が執り行われている等々。所でその後実朝の首級をもって逃亡した公暁自身も恃みにした三浦義村(北条義時から"鎌倉殿の13人"の一人三浦義澄の次男、妻は公暁の乳母(めのと))に見捨てられて三浦の家臣長尾定景に討たれ、次いで同家臣の武常晴が失われた実朝の首を見つけ、幕府の有力御家人波多野氏所領の秦野の先述した金剛寺に(首を)持ち込み、近くに埋葬された〈これが田原ふるさと公園の実朝御首塚である〉。次回へ続く。
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田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
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