50年前の1966年は、八王子にとって「節目」の年のひとつだった。「市制施行50周年記念式」が開かれたほか、多摩ニュータウン開発の事業計画がまとまり、帝京大学(大塚)や東京造形大学(宇津貫町)などが創立するなど、それまで「織物の街」だった八王子が「学園都市」「多摩ニュータウン」の顔をもつ都市へ変貌する時期にあたる。
当時の市の人口は21万2439人(5万2811世帯)。現在(15年11月時点)の5分の2程度の数だったが、戦後から20年が過ぎ、市民はより良い生活を求め、働き、地域とのつながりを強く求め始めた時代だった。「今よりも街に活気があった。八王子駅前には次々と新しい店ができていったんだよ」と当時散田町に住んでいた曽根徹さん(75)は振り返る。
曽根さんはその時26歳。バイクを販売する営業マンとして、自転車が「市民の足」だった時代に、スーパーカブを売り続け、2年後に独立するまでに。「看板を掲げて、一生懸命働けばいくらでも店を『伸ばすこと』ができる時代だった。この時ぐらいから、みんなが日曜日に休むようになったが、休むのがもったいないと感じるぐらいだったよ」と話す。
その時の思い出のひとつが、当時の「八王子まつり」。トラックの上で、マイクもなく大声で歌い、踊る女性たちのパフォーマンスを見て「街の勢い」を感じたという。「いい時代だったね」。実感を込める。
伝統見直す時
「地方から年間30万人が東京に来た時代。開発が進む都心は地価が上昇し家賃が高騰したので、多くの若者は、家賃の安い八王子などに住むようになった。だから、八王子に活気が生まれた」。街づくりを研究する中央大学総合政策学部教授の細野助博さんは当時をこう解説する。土地の安さから、大学や工場の建設が相次いだことも、街の勢いを増す要因のひとつになったという。
「人口の増えないこれからの時代は、芸者文化を発展させ、中高年男性を呼び込むなど、他市にない独自の『伝統』を生かして八王子をアピールしていくことが街の活性化につながる」と分析している。