相模原に避難されている方の声 3・11と一言でまとめられてしまうが、被災された方の思いも風景も決して一様ではない。時間をかけてでも一人ひとりに手を差し伸べていきたい 原発の街のリアリティ―― 加勢さん夫婦/福島県浪江町から避難中。中央区光が丘在住。一良さん70歳、照子さん69歳。
「2人で一所懸命働いて、家だけが自慢できるものだったねえ」。戸建て売り出し当時の販売チラシを手に取りながら、加勢照子さん(69)は懐かしんだ。瓦屋根の、どっしりとした趣の自宅は海からわずか300m。「頑丈な家だったがら、基礎だけは残ってよ」と、夫・一良(いちろう)さん(70)は震災後に撮影した写真を見せてくれた。近所の家々は基礎すらも残らないほど、大きな津波に飲み込まれた。話によると、10mの高さだったという。
やっと一時帰宅が許された5月、長男と変わり果てた故郷・福島県浪江町へ。少し山側に住んでいた娘夫婦の家を整理するために訪れたが、変わり果てた風景に涙が止まらなくなった。「父ちゃん、涙を拭いちゃダメだって!放射能が目に入っから」。防護服に付着した放射性物質による外部被ばくを心配した、長男の言葉だった。福島第1原発まではたったの7Kmしか離れていない。「原発を見ながら、寝起きしていた暮らしだった。津波だけだったらまだ立ち直れたよ」。今は、昨年5月から提供されている相模原市内の県営上溝団地(中央区光が丘)に夫婦2人で暮らしている。
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インタビュー中、口をついて出るのは、感謝の言葉だった。被災地から逃れてくる際に高速道路のサービスエリアでおにぎりを配ってくれた青年がいた。茅ヶ崎市に住む長男宅に避難している時には、近所の人が駐車場や衣類を快く提供してくれた。近所の新聞店は「タダで差し上げます」と、一般紙と一緒に福島県のローカル紙も届けてくれる。「手術して足が悪いから、助かってるんだ」と一良さん。市内の大型入浴施設が行っている無料サービスは、大のお気に入り。「ほんとにありがたくって。親切にされすぎだから、(恩返しのために)何かしなくちゃと思うんでけど…」。照子さんは申し訳なさそうな顔をした。手を差し伸べてくれた人の厚意は、加勢さん夫婦の心にいつまでも残っている。後に知ったが、当社による取材も、『お世話になっている相模原のためになれば』と、特別に引き受けてくれたものだった。
現在、照子さんは団地内の集会所で毎週行われている、サークル『光が丘ピンポン会』(星宣子代表)の活動で汗を流す。いつも15名ほどが集まり、親睦を深め合っている。「これがホントに楽しくって。茶飲み友達もできて」と、目を細める。中学のとき卓球部だった勘を取り戻し、すぐに輪に溶け込んでいった。仲間との交流が、孤独だった気持ちをわずかながらも癒してくれた。
海がない相模原は、洗濯物が乾きやすい点も気に入っている。「海の近くには住みたくない。2人で住むにはここで十分。できればずっと居たいけれど」。県からの提供は平成25年10月まで。とはいえ、故郷は戻る場所でなくなってしまった。放射能問題の見通しが立っていない今、原発と共に生きてきた街の人は、人生の舵をどの方向に切ればいいのかわからず、立ち止まってしまったままだ。
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「もし何があっだとぎには、孫たちに『じいちゃんたちは、何てもの造ってぐれたんだ』って、恨まれっぺな」――。福島第1原発、第2原発着工時の配管工事に携わった一良さんは建設当時、現場の仲間たちとそんな会話をしていた。
いつも当たり前のように佇んでいたものには、”絶対の安心”を託していた。「他の所から来た人が見ると、『なんでこんな立派な家がたぐさん建ってんだろうね』と思われるのが浪江町という場所。田舎だから仕事がないし。きっと町の10分の7ぐらいの人は、原発で働いたことがあるんじゃないでしょうか」。照子さんが聞かせてくれた”原発の街”の現実だ。それが就労場所を生み出し、生活水準を高めてくれたことは、住んでいた者だから誰よりも感じている。農業を営んでいた人たちは、農閑期にはこぞって、原発へ働きにでかけていたという。「今度はいっぺんにゼロになっちゃった。『私らばっかりじゃないから』と言い聞かせてるんです」。優しい目尻には涙が溜まっていた。
インタビューの終わりにこうポツリとつぶやいた。「造るんだったら、最高の原発を造って欲しい」。3時間近くにおよぶ会話の中で唯一、笑顔が消えた瞬間だった。
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