相模原に避難されている方の声 3・11と一言でまとめられてしまうが、被災された方の思いも風景も決して一様ではない。時間をかけてでも一人ひとりに手を差し伸べていきたい 「私と娘は確実に被ばくをしている」―― 鹿目(かのめ)久美さん…福島県大玉村から長女と避難中。緑区原宿出身。44歳
結婚を機に、2005年、夫の地元・福島県へ。「向こうは結露が凍る寒さ。でもこっちの蒸し暑さも大変です」。長女が誕生し、2008年にはマイホームを手に入れた。憧れのログハウス。子どもたちは近所の畑から野菜をもぎとって食べる。「子育てには最高の環境でした」。
自宅は福島第1原発から約60Km。震災による直接の被害はほとんどなかったが、原発事故を受け、3月18日から相模原市の実家へ自主避難した。しかし4月になり、幼稚園の入園式のため福島へ。いつもと変わらない長閑な風景。しかし、放射能は村を覆っていた。調べてみると、園で毎時1・2マイクロシーベルトを記録。幼稚園からは「外遊びはなし。常にマスクは着用を」との忠告が。そして屋内中心の生活が始まった。「疲れやすい」。長女の言葉からストレスを認識するようになった。
幼稚園の夏休みを機に、長女と二人、相模原で過ごすことに。しばらくして、娘がとても上機嫌でいることに気付き、ハッとした。「彼女がヒステリックなことが当たり前になってしまっていたんです」。8月、小田原のイベントで、武田邦彦氏(中部大学)の話を直接聞き、映画チェルノブイリハートも観た。事実はどこにあるのか?ただ、「福島には帰れない」という気持ちだけが残った。
夫は幼少の頃から福島で過ごしてきた。地元の高校を卒業し、ずっと地元の会社に勤めている。「娘の5〜10年後を考えると避難しないと」と、相模原への帰省を薦めてくれた。しかし、時間が経つに連れ、二人の思いは交錯する。「福島は危ない」「思っているほど影響はない」。二人とも自分に都合のいい情報ばかりを交換しあった。「福島で暮らすなら、それなりの覚悟はしないと」。夫の言葉が胸にささった。何度も涙を流した。
放射能の影響なのか?福島の知人が立て続けに病院に駆け込んでいる。体調を崩す人が多いそう。震災がれきの受け入れについては、「放射能は拡散させない方がいい。福島以外に”帰れない”場所ができてしまったら困る」という見解だ。放射能汚染に取り組む集まりや、脱原発を訴える団体はいくつもある。「でも、どれも『自分や家族の身を守る』ためのもの。”つちのこ”は違いました」。緑区を中心に活動する団体「つちのこくらぶ」が、相模原での心の支えとなっている。つちのこは親と指導者が共同で未就園児を保育をする集まり。「福島の子どもを助けること」にも力を注ぐ。この春には、”つちのこママの有志”で福島っ子30数名(保護者含む)を招いてのキャンプを企画している。「半分くらいは自分の友達。みんな誘ったら『行きたい』って」。ママはやはり放射能が気になる。
「自分も娘も確実に被ばくをしている」。忘れもしない3月14日。福島第1原発3号機でも水素爆発が起きた。その日の午後、長女と二人でガソリンを買うため、2時間、屋外で行列に並んでいた。「家に帰ったら二人とも顔が日焼けしたみたいにヒリヒリして。咳が止まりませんでした」。後になって、その症状は被ばくの急性症状に似ていることを知った。「もうこれ以上、被ばくはできない。一生背負って生きていかないといけないんですね」
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