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嗚呼、天国から地獄へ軍用の鳩 相模原市文化財調査・普及員 山田真也

社会

公開:2015年7月16日

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終戦直後の旧陸軍通信学校の構内。兵舎の後方には現存する給水塔(右)と焼却用煙突(左)が見える(相模女子大学八十年史より)
終戦直後の旧陸軍通信学校の構内。兵舎の後方には現存する給水塔(右)と焼却用煙突(左)が見える(相模女子大学八十年史より)

 ここに一枚の貴重な古い見取図がある。旧陸軍通信学校の構内の全施設の配置図だ。約38町歩の広大な敷地内の、あらゆる施設や建造物の位置と名称が正確に記入されている。所在地名は「神奈川県高座郡大野村上鶴間字(あざ)山野上原(さんやうえはら)4079他」と記入されている。

 昭和12(1937)年9月に相模原と座間にまたがる現在の米軍キャンプ座間の地に陸軍士官学校が転営してきた。そして士官学校ももちろんそうだが、通信学校にも「お国のために」と学術優秀、身体強健、志操堅固の若者たちが全国各地から続々と集まって来た。遠くは樺太(からふと)(現在のロシア・サハリン)から台湾からと。

 この図面を見ると、将校集会所(現存)や本部棟、大講堂、実習工場をはじめ、大小約80棟が建ち並んでいる。概して大きな建造物が多く、特に通信隊・鳩部兵舎、有線・無線電信隊兵舎。下士官候補者隊兵舎・学生舎などの兵舎(寮)が目立つ。遠方から来た通信学徒のために用意したのだろう。15歳から18歳位の若者たちが、故郷から遠く離れた相模大野の地で必死に学び訓練に勤(いそ)しんでいたのかと思うと、そして勇躍戦地に赴(おもむ)いて行ったのかと思うと熱いものが込み上げてくる。戦後も70年、その軍人軍属の存命者もほんの僅(わず)かに。

 この通信学校では、無線通信技術や暗号の解読、さらに軍鳩(ぐんきゅう)、すなわち軍用鳩の訓練と操作術が短期間に特訓されていた。鳩も全国から優秀なものが集められた。通信学校の見取図をみると現在の谷口台小学校の校庭の道路沿いに7棟もの鳩舎(きゅうしゃ)がある。二階建の大きな鳩舎だったので700羽ほどの軍鳩が飼われていたものと推定される。

 最前線の戦闘地域で孤立し、救援要請の通信手段を失った隊を救うべく活躍したのが軍鳩。敵の銃撃を浴びたり、鷹やハヤブサなどの猛禽類(もうきんるい)の襲撃に遭いながらも連絡任務を全うした鳩。血だらけになりながら鳩舎に戻って息絶えた鳩もいたという。昼間は危険なので鳥なのに夜間飛行の訓練までさせられた。だから餌も人間様より上等の玄米だったと、かつて通信学校で飼育担当だったOさん(86歳、実は私の父の友人)は懐かしそうに語っていた。

 ああ、それなのに、8月15日の敗戦が決まったその日のうちに、全ての鳩が殺処分されてしまったのだ!軍の機密として、連合軍が進駐してくる前にと。玉音(ぎょくおん)放送の前までかわいがっていたのに、上官の命令は絶対だったので、飼育担当者たちは粛々と殺処分せざるをえなかったと言う。戦争とは、残虐な狂った論理がまかり通るものらしい。鳩の命も、人間の命さえも。

 人間たちのために働き、人間たちの勝手な理由で殺され、そして慰霊もされぬ鳩たち。毎年8月には東大沼にある慰霊塔で戦没者の慰霊式が行われているが、軍馬、軍犬、軍鳩の慰霊式は、この70年間一度も行われていない。これが現在の我々日本人。鳩たちは一体どんな思いでいるのだろう。
 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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