国内観測史上最大の地震だった東日本大震災の発生から間もなく12年。復興に向けた現地の動きは、今なお続いている。被災地で救助にあたった相模原市消防局員にとって、被災地での活動は、現在から未来にどのような影響を与えているのだろうか。話を聞いた。
全てが災害現場
相模原市消防局が緊急消防援助隊を編成し、東北へ向かったのは、震災が発生した3月11日の夜。午後7時に発隊式を終えた平田英玄さん、中山剛さんらは一路、神奈川県隊が集合する仙台市へと向かった。「出発前に情報収集としてテレビなどを見たが、想像を絶する光景に言葉を失った」と中山さんは当時を振り返る。
援助隊が到着したのは翌12日の夕方5時。ほぼ丸一日かかった。
火災が残る工場やヘリコプターが建物の屋上に取り残された被災者を救出するのを横目に見ながら、仙台市内の神奈川県隊から割り当てられた地区で人命救出のための検索救助にあたった。
津波の影響で陸地はまだ海水が残る状態。隊員らは高速道路上に車を止め、資機材を手に海岸に向かって約2キロメートルを歩いて捜索現場へ向かった。「周り全てが災害現場。今までの経験が通用しない」(平田さん)「ヘリが旋回する音以外は無音の世界。雪が舞っていたが寒さは感じなかった」(中山さん)。
隊員らの思いも虚しく、見つかるのは遺体だけ。泥に埋まっていたり、田んぼにめり込んでいたり、と津波の凄まじい威力をまざまざと見せつけられる。他人の家の庭で赤ちゃんを守るようにうつ伏せになった母子の酷い姿を見つけたこともあったという。
経験が財産
2人は2020年7月に起きた熱海市(静岡県)の土砂災害にも救助に向かっている。
平田さんは、東日本大震災時同様、いわゆる活動隊として、中山さんは活動隊が現地で活動しやすいように後方で支える後方支援隊として従事した。
発災当初「地盤の硬い熱海でなぜ土砂崩れ」と訝しんでいた平田さんは、現場を見て愕然とする。豪雨で上流から岩と共に勢いよく流されたのは大量の盛り土。現場は柔らかい土に岩が混じり、スコップが役に立たない状態。救出活動は人海戦術で、少しずつ土を取り除き、人がいないのを確認できた場所から重機を入れ、建物の中の岩をどかしながら検索救助を行った。
後方支援隊に回ったその理由について「東日本大震災の際、活動した隊員が休めるように夜営のテントなどを用意してくれたのが有り難ったので」と説明する。コロナ禍で感染防止や猛暑への対応など厳しい環境での活動だったが、相模原以外の地区の隊員とも一体になっての活動は、「使命感と責任感でやる気に満ちていた」という。後方支援隊の対応に対し平田さんは「活動隊の活動状況を確認し、食事を出したり睡眠スペースを確保するなど、先回りして動いてくれた。東日本大震災の時は、活動隊が後方支援を手伝うこともあったが、熱海の時は何もしなくてよかった」と感謝した。
災害現場での活動経験の蓄積は、次の発災時に被害の減少や救命の助力になるに違いない。
歴史を教訓に
今年は関東大震災から100年の節目の年。平田さんは「市内にも石碑が建っていたりして、先人の知恵や教えが残っている。伝えるべきことはたくさんある」と語る。一方で「自然災害などはありえなかったことが起こっている。以前大丈夫だったからは通用しない」と中山さんが語る通り、過信は禁物だ。
2人が声を揃えたのは日頃の備えの重要性。備蓄品の確認から断水に備え風呂の水は貯めておくといった些細な事まで「備えが心の余裕を生み、周囲に目を向けられる。そうすれば買い占めなども起きないはず」と訴えた。
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