航空通信隊員としてフィリピンへ出征し、1947年に帰還した 座間稲生(いなお)さん 南区当麻在住 90歳
「毎日思い出す」戦争の記憶
○…居間の壁に掛かった2枚の写真。1枚は昭和19年、フィリピンのルソン島へ出兵する前に、所属する第十七航空通信隊で撮った集合写真。もう1枚はその出征途中、米軍潜水艦の砲撃で海に投げ出され一昼夜を漂う中を救ってくれた、日本の駆逐艦「呉竹」の写真。「この写真を見て戦争を毎日思い出している。涙が出るよ」。眼差しと言葉に力が込められる。自身を救った呉竹はその年の暮れ、米潜水艦の雷撃により沈んだ。
○…「戦争の話になるとパーっとひらめくよ。全部覚えているもの」。鮮明に記憶を呼び起こす。21歳の春、「お国のため」と当たり前のように戦地へ赴いた。通信士として派兵されたものの、現地に無線など無い。砲弾の雨の中を、命令書を持って走った。自隊164人中、生還者は自身を含めたった4人。米軍の捕虜収容所で再会した戦友が言った。「座間、話にならん。1発撃てば20発返ってくる。恐ろしい戦争だ」。右目を失い捕えられたその友は、自死しようにも舌を噛み切る力すら残っていなかったという。
○…戦地で月を眺めては望郷の念を募らせ涙した。敗戦の報を受けたのはルソン島の山中。戦いが終わってすでに2カ月ほど経っていた。「ほっとした。これで日本に帰れる、別の人生が送れる、と思った」。その後、捕虜として収容された先でクレーン車の操縦を学び、昭和22年12月に帰国すると、知人と建設会社を設立。後に独立し個人で重機リース事業を70過ぎまで営んだ。2男2女に恵まれ、現在は60年以上連れ添う夫人と2人で暮らす。
○…「戦争はむごい。むごたらしい。家族にとっても悲惨なこと。絶対にやっちゃいけない」。そう吐き捨てるように、祈るように叫ぶ。「今、日本は我慢しなきゃいけない時だ。外国船が(領海に)来たって短気に走っちゃいけない」と、日本の外交に警鐘を鳴らす。壁の写真を見つめ、つぶやく。「戦争は死んだ人も生き残った人も、大変なんだ」
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