電気・風呂なしの一カ月―― 渋谷光代さん/宮城県石巻市から避難中。69歳。北ふさ子さん/同じく石巻市から避難中。65歳
津波がくる、とラジオが叫んでいた。岩手県大船渡市へ25メートルの大津波が…。「え!嘘でしょ。2メートルの間違いじゃない?」。
渋谷光代さんは昭和18年、宮城県石巻市の生まれ。先月まで中央区清新の施設で避難生活を送っていた。「こっちは煮魚にできる魚が少ないかね。でも贅沢は言えないよ」。
震災の後は、高台にある大家さん宅へ避難。夜中に震えながら歩いて移動した。一命は取り留めたものの、避難生活は壮絶だった。一カ月間、電気・水道なし。もちろんお風呂もない。「みんな入っていないから、もうにおいなんかわかんない状態よ」。その避難所から外を眺めると、目をそむけたくなるものばかりが視界に入ってきた。「もう海を見たくないわ」。
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「5、6度違うね。向こうはセーター着て、どんぶく(はんてん)羽織って。こんな薄着じゃいられないよ」。北ふさ子さんは息子さんが相模原の田名(中央区)で暮らしていたため、こちらへ避難してきた。昭和22年の生まれ。渋谷さんと同じく、石巻市の出身。しかも地区も同じ。さらに偶然にも昨年5月末から、相模原の施設で一緒に過ごしている。「困ったことは何もない。友だちもすぐできた」。施設の掃除を手伝うなどし、スタッフからはとても感謝されているそうだ。
地震の直後は素早く自宅2階へ駆け上がった。津波は瞬く間に1階を飲み込んだ。何時間経っても水が引かない。流された車がぶつかる音、壊れたクラクションが夜に響く。ひとり、震えながら朝が来るのを待った。避難所までは100メートル。通帳、年金手帳など、大事な書類だけを抱えて家を出た。ヘドロに足をとられる。わずかな距離が異様に遠く感じる。「つばもでなかった。喉が乾いて声もでない。冷たさも痛さも感じなかったよ」。
北さんは地元のビジネスホテルでベッドメイクの仕事をしていた。相模原で同様の職種を探すが、なかなか条件が折り合わない。車椅子生活を送る夫のケアもあるため、働く時間は限られる。「相模原の人も避難所にボランティアに来てくれて。そこでお世話になった人がこっち(中央区の施設)にも会いに来てくれるんですよ」。
住んでいた地区がすっかりなくなった。数カ月して故郷を訪れた。「何もなくなって、『こんなにも海がきれいなのか』って思いましたよ」
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