「そうだ。プロでプレーしたいんだ」
桜美林大学在学中に野球部で活躍、キャプテンも務め、卒業後もコーチとして母校の躍進を支えた。プロを意識したのはその頃。本を読む機会を増やして「小さいころに夢見たことを仕事にできたら」と改めて考えた。「自分の好きなことは何だろう」。当時愛読した「夢を叶えるゾウ」に触発された。それは一度あきらめた夢だった。
幼少期、元気あふれる子どもだった。「外で暴れてましたよ」と懐かしむ。野球は2歳上の兄が大好きで、遊びと言ったら野球だった。自分はそれほど興味が湧かなかったが小学1年のとき、渋々付いていくことに。そこから次第に好きになった。「打つだけでなく、守ったり、走ったり、考えたり」。野球はやることが多く、なかなか簡単にはいかない、そんな難しさに面白味を感じた。
小学校の時はただ単純に野球そのものを楽しんだ。中学・高校と野球を続けたが、もともと気の強い性格ではなかったこともあり、レギュラー争いの勝負や先輩後輩のルールなど、縛りが強く、押しつけられることに嫌気がさした。自分からうまくアピールすることができず「その時は本当に野球が面白くなかったですね」。中学時代は控え選手、野球の名門高校に進むも、ほとんど試合に出られなかった。「自分に力がないのかな」。大学を決める時には「野球はもういいかな」とさえ思った。そんな時、桜美林大学の野球部がちょうど、準硬式から硬式に変わると聞いた。「試合に出られるところに行こう」。試合に飢えていた。
父はプロ野球選手
「ヒーローインタビューで名前を呼ばれたのは、幼稚園だったかな。自分の記憶はないけど、周りや映像で覚えています」。プロ野球選手「川相昌弘」のプレッシャーは「あまり気にしなかったですね」。中学校時代は、現役で忙しかった父とは接する時間がなかなか取れなかった。高校では自分が寮に入っていたので、会うことも少なかった。「当時アドバイスをもらえていたら違ってたのかな」。自ら壁を作っていたと振り返る。そして「小学校の時は父とキャッチボールをすることもありましたけど、投げ方がどうだとかグローブの構え方がどうだとかガミガミ言われて、その時は拗ねて帰りましたね」と思い出し笑う。
「プロテストを受ける権利は誰にでもある。問題は受けられる態勢を整えられるかどうか」。大学でコーチをしながら、空いている時間を見つけてトレーニングを行った。思った以上に大変で、何度も挫折しかけたが、「自分が決めたことだから」と強い気持ちを持って挑んだ。友人や先輩にチャレンジすることを伝えると、みんなからの「やってみればいいじゃないか」という声が励みになった。
プロになる今
「まだプロと名乗れるレベルではないです」と自分を戒める。育成選手として「まずは試合に出ないといけないし、与えられたチャンスで結果を残せるように、日々努力するしかない」と語る。学生時代はよくケガに泣かされた。プロとして身体がついていくかの不安もあり、身体の準備に力を入れ、ジムに通いケガをしない体づくりに励む。練習ではランニングやノックの量で、学生との違いを実感した。体のケア、コンディショニングに時間を費やし、「数少ないチャンスをものにしたい」と瞳の奥を光らせる。そしてセールスポイントの「守備」でアピールしていく。「練習からエラーをせず堅実に、そこからチャンスが生まれるはず」とその目はまっすぐ未来を見据えている。「まずは支配下選手になること。その先の目標は、まだぼんやりとしか見えていない」
プロでの「不安」もあるが「ワクワク感」が勝るという。「大勢の観客の前でプレーする」幸せを感じ、「観客の多さは大学とは比ではない」と燃える。ファンフェスタでは原辰徳監督から「自分で決めたことなんだから、挑戦することが大事。一生懸命やれよ」と言われ、背筋を伸ばした。
将来の君たち(過去の自分)へ
「少しでも可能性があるなら、あきらめずに挑戦してほしい。野球はもちろん、就職にしても、生活の中でも、可能性があるならチャレンジしてほしい。仮に失敗しても、それまで頑張ってきた自分が残る」と後輩たちにメッセージを送る。
自分の過去の蓄積を力に変えて、近い将来、背番号004が読売ジャイアンツ球場で、東京ドームで躍動する。
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